JR相模線の宮山駅からのどかな農村風景の中を歩いていくと、ほどなくして相模国の一之宮として名高い寒川神社にたどり着くことができるが、その社前にある静かなお寺が高野山真言宗の古刹である、霊信山・西善院である。
この西善院は、まだ神仏習合の頃に寒川神社の一部をなす仏教寺院であった。
神道と仏教が明確に分けられていなかった頃、神社での仏教行事を執り行う「供奉僧(ぐぶそう)」の役割として、節分の際には神酒を供え、また1月、6月、11月の各8日の祭、12月の不動祭を執行する役割を担っていた、と「寒川町史」には伝えられている。
ちなみに、寒川神社は格式の高い神社であったから供奉僧寺院も多く、この西善院の他には
- 薬王寺(やくおうじ=明治期の神仏分離令により寒川神社の神官となった)
- 神照寺(じんしょうじ=明治期の神仏分離令により寒川神社の神官となった)
- 中之坊(なかのぼう=明治期の神仏分離令により廃寺となった)
- 三大坊(さんだいぼう=明治期の神仏分離令により廃寺となった)
が、それぞれ存在していたと伝えられている。
なかでも、この西善院は、薬王寺と神照寺のご本尊と檀家を引き継いで今に伝えられているのである。
この寺院の境内の隅には、一基の古ぼけた墓石が残されている。
陰刻をよく見れば、地蔵菩薩の梵字と立像、その両脇に「智運童女」「享保十五庚戌年十二月廿日」と彫られており、享保十五庚戌年といえば第八代将軍、徳川吉宗公による享保の改革がなされた頃のことであったろう。
両手を静かに合わせて合掌する地蔵菩薩の足元には、華麗な蓮華座の下に花弁が彫り込まれて、文字通り華々しさを添えているのである。
童女というのは、真言宗において4~5歳から15~16歳くらいまでの間に亡くなった女児に対する戒名であるが、これは恐らく幼くして亡くなった愛娘に対する、せめて死出の旅を花で飾ってやろうという切なる親の願いを表したものであろうか。
かつて、仏教の世界観では親よりも先に死ぬということは最大の不孝とされていた。
しかし、病や不慮の事故によって望まずして亡くなった子供たちも多かったわけで、そうした子供たちは生前になしえなかった徳を積むために賽の河原で石を積み続け、鬼に壊されてはまた積み続ける、という果てしない修行をすると言い伝えられてきた。
この終わりの見えない苦行の中から、苦しむ子供たちをあまねく救い、極楽浄土へ導くのが地蔵菩薩であるとして篤く信仰され、そのため今なお地蔵菩薩を彫り込まれた幼児の墓石が多く残されているのを、このようにして見る事ができるのである。
いま、この物言わぬ地蔵菩薩の前に立ち、かつて幼くして亡くなった子供たちの無念と、せめて死出の旅を花で飾り、ありがたい地蔵菩薩に託して無事に極楽浄土へとたどりついて欲しいと願った親たちの切なる願いがここによみがえるようで、夕暮れの静寂な寺の境内によりいっそうの悲哀を思い起こさせるのである。