横浜市中区、本牧通りにその名も「東福院入口」というバス停があります。
そこから山側に入っていくとすぐに、高野山真言宗寺院の間門山 東福院(まかどさん とうふくいん)というお寺があります。
このお寺は寛永年間(1624年~1645年)に清任阿闍梨が、近くにあった小さな庵を現地に移して、立派な寺にしたのだと言われています。
現在は東国八十八ヵ所霊場の第46番、横浜三十三観音霊場20番、横浜二十一弘法大師霊場17番となっていますが、そのほとんどは霊場としては機能していないようです。
この東福院の境内には、舟に乗った六地蔵が残されています。
この六地蔵はもともと、現在の本牧市民公園のところにあったとされていますが、その詳細な場所は詳らかではありません。
この六地蔵はもともと遭難した親子たちの供養のために建てられたものと言われています。
享保4年(1719年)というから、江戸幕府第8代将軍徳川吉宗公の治世の頃です。
ここ本牧に親子で6人暮らしの漁師が住んでいました。
ある日、長かった強風もおさまり久々の穏やかな日となったので、この家族はそろって漁に出かけました。
多くの魚が捕れて大漁となった喜びもつかの間、急な大しけとなって船が思うように進みません。
岸からそれを眺める村人たちは助けに行くことも出来ず、また親子は力の限りに叫んで助けを求めますが、瞬く間に流されて還らぬ人となったのです。
その後、海は再び穏やかになり、浜には親子六人が変わり果てた姿で打ち上げられておりました。
父と母は、その腕に力の限りに我が子を抱きしめたまま息絶えていたといいます。
村の人たちはこの無情に大いに涙し、六人の菩提を弔うべく六地蔵を造ります。
村人たちはこの六地蔵を舟にのせ、せめて三途の川くらいは楽に渡れるようにと極楽浄土へと託したのです。
ふつう、六地蔵というのは仏教でいう死後の世界である六道(天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道)にて彷徨える亡者を見つけて極楽浄土へと案内するというのが定説ですが、ここの六地蔵は少々事情が違うようです。
この六地蔵は、明治のころまでは本牧の浜、現在の本牧市民公園のあたりに並んで立ち、海を見守っていたそうです。
しかし、三渓園や海水浴場、公園や道路などが整備されていくに従いその居場所を転々とし、最終的にここ東福院へと落ち着いたのだそうです。
それからも近隣の漁師たちから大漁と海上安全に霊験あらたかなお地蔵さまとあがめられて大切にされてきましたが、現在は本牧での漁もめっきり少なくなり、詣でる人も少なくなってしまいました。
それでも、いつも境内の六地蔵は綺麗に掃除され、常に真新しい千羽鶴や花束や涎掛けが添えられて、穏やかに人々の営みを見守っておられます。
いま、夏も終わりに近づいた夕暮れの中、日暮らしが泣き続ける寂しげな境内で六地蔵の前にひざまづいて静かに向き合っていると、どこからか波にのまれていった親子たちの無念と慟哭が聞こえてくるようで、思わず手を合わせて時の流れのはかなさを感じるのです。