みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。

海に生きた漁師たちの無念 花暮のお石塔さま(三浦市)

三浦消防署三崎出張所は、かつて三浦市消防本部花暮消防署といった。

このあたり一帯、特に岸壁を花暮岸壁と呼んでいるが、このあたりは大正時代に埋め立てられるまでは一面の磯場で、起伏にとんだ岩の間を波しぶきがたたきつけ、その陰では子供たちが海藻取りや貝取りに勤しむ姿が見られたという。

 

 

地域史研究家松浦豊氏の上梓された地域史料「三浦半島の史跡と伝説」によれば、

 

 

御座の磯・・・花暮の旧三崎警察署のあたりにあった平らな磯と、その突端に突き出た三ケ所のところにあった高い磯

トンピチ山・・・三浦商工会議所周辺にあった小高い山で、現在は削平されて見る影もなし

花暮の周辺の磯・・・サザエがたくさん獲れたというサデイ島、エビ島、スビッチョ磯など多くの変化に富んだ磯があったと記載されている。

 

しかし、これらの風光明媚で磯の物も豊かに獲れた磯も、大正時代から段階的に埋め立てられて姿を消していき、現在はその面影を偲ぶよすがもない。

 

磯が埋め立てられる前は花暮岸壁のあたりにあったスビッチョの磯の上に、お石塔と呼ばれた石碑に並んで、ひどく浸食され摩滅した小さなお地蔵様が祀られていたという。

 

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このお石塔というのは、遭難して行方知れずとなった漁師たちの霊を慰めるために昭和3年4月に建てられた海難供養の碑であった。

表題の「供養塔」の揮毫は海軍中将佐藤鉄太郎によるものである。

 

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昭和2年9月には大島沖で宮城の清六丸が難破して十一名の尊い命が失われ、それからも花暮の金次郎丸、平七丸、門三丸と相次いで難破する船が出たために、海を臨む花暮れの里にお石塔を建立したのだという。

 

それ以来、毎年8月24日の日の盂蘭盆会の日になると精霊迎えの儀式が行われ、花暮や仲崎の集落の人々が三々五々このお石塔の前に集まっては光念寺の住職を招き、海で亡くなった人たちの位牌をならべて浜施餓鬼を行ったといわれている。

 

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しかし、星霜重ねた現代になってからは磯はすっかり埋め立てられて民家や商業地となり、週末ともなれば「三崎まぐろきっぷ」を握りしめた若い女性たちで賑わっているが、かつてこの地でそのような哀話が繰り広げられていたとは俄かに想像しがたいのである。

 

浜で生き、船を生業とした三浦三崎の人々の中には、少なからず海で命を落とした人も多かったであろう。

当時の人々が「板子一枚下は地獄」と表現したほどに死を身近に感じ、死に対する恐怖は計り知れないものがあったという。

 

科学も発達しておらず、何もかも神頼み仏頼みに頼っていた時代、家族の無事を一心に神仏にすがり、毎日のように祈りを捧げた家族たちの姿は、古ぼけた石仏の前たたずんでいるとにわかに蘇ってくるかのようである。

 

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そして、それほどの祈りも通じずに家族の命が失われたとき、祈りは怒りとなり絶望と化して、地蔵の頭がもぎ取られて無残な姿をさらす事もあった。

それが、摩滅したお地蔵様の横に立つ「清六地蔵」であるが、現在は綺麗に修復されたのかそのような面影はない。

 

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それらの石仏は磯のほうぼうに点在し、里の草いきれに埋もれるように点在していたが、現在は三浦三崎を見下ろす光念寺の参道の角に集められているのを見ることができる。

 

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いま、この静かで寂しい丘の上には、かつて海とともに生きた人々の悲しい哀話をたくさんに秘めた石仏たちが、三浦三崎を眼下に望む一角に立ち、無言のままで現代の三崎に生きる人たちを見守っている。

 

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この丘の上にしゃがみ、六道でもがく亡者を極楽浄土へと導くと信仰された多くの地蔵菩薩の立像と同じ視線で夕暮れの三崎を眺めるとき、かつてここを訪れた松浦豊氏の足跡と、多くの漁師たちの切なる思いが潮騒に乗って聞こえてくるようで、感慨深いものを感じるのである。