横浜の中でも名高い庭園に「三渓園」があり、花が咲く時期や暖かい日の休日などは多くの人が遊覧に詰めかけるが、その入り口の近くにひっそりと隠れるようにして祀られているのが、「亀の子神社」、通称「亀の子さま」である。
道路の脇にある境内への入り口には簡素な鳥居が立ち、しかしながら手入れは行き届いて境内は綺麗に掃き清められて、地元の人々から崇敬を受けているのが手に取るように分かるのである。
また、鳥居には手先が器用な人が手作りして奉納したものであろうか、銅板に槌や鉄棒で後をつけて線描画のようにした浮彫の扁額がかけられ、その素朴な技法ながら完成度の高さに思わずシャッターを押さずにはいられなかった。
境内に入っていくと一見して台座の上に石碑が立っているようにも見えるが、本当のご神体はこの石碑ではなく、石碑の足元にひっそりと建つ亀の形をした異形の石であり、これは亀の子様といって地元の方から親しまれているようで、この時も境内を掃除していたお婆さんの姿を見ることができた。
(写真はお婆さんが写らないように配慮させていただき撮影)
この亀の子さまには、数多くの亀の子たわしが奉納されている。
おばあさんの話によると、亀の子たわしは亀の子さまとは何のかかわりもないが、亀つながりで奉納されていたか、この亀の子さまを掃除するために奉納されたものが始まりとなって徐々に数を増やし、やがてこれだけの数になったのだというから面白い。
図書館で借りてきた地域史料によると、この亀の子様はもともと本牧の漁師の網にかかった大亀が死んでしまい、埋められていたが大嵐が続くようになり、亀の祟りを恐れて掘り返して供養しようとしたところ、亀が石に姿を変えていたものであると言い伝えられ、それを哀れに思った老婆が石を撫でると、たちまちにして老婆の咳の病が治ったのだという。
それからは本牧の田んぼの中に放置というか安置というかされていたものが、市電が本牧まで通って街として開けていくにつれ、この亀の子様は戦後になって行き場を失ってこの地にやってきたという。
本牧の地域では亀に伝わる教え、言い伝えが多かったという。
「鶴は千年、亀は万年」のまま長寿の象徴でもあったし、横浜の浦島伝説のように竜宮の遣いとしてもあがめられた。
また、村に悪い病が流行れば亀の甲羅に病気平癒の願い事を書いて酒を飲ませて、海に放してやればどんな病気でも直し、とりわけ百日咳にたいして効能あらたかであったという。
地域史料によれば、子供が百日咳にかかると亀の子様に来ては、奉納されている亀の子だわしを借りて帰り、そのたわしで子供の茶碗を洗い、のどをこすると百日咳は瞬く間に治ったという。
そのお礼に、亀の子たわしを借りてきた数の倍にして返すという習わしがあったということである。
かつて、境内には赤、白、黄の三色の旗が奉納されて、絵馬や旗には「毎月、1日に参拝します」といったように、それぞれの信者がお参りする日が約束事として書かれていた。一時はそのお参りする人を狙って茶屋まで出来たこともあったという。
このあたりは、現在となっては海岸から張り出すようにして作られた港が遠くまでたちはばかり、昔の情景を偲ぶよすがもないが、かつては漁が盛んな海辺の村であった。
そこに住む大きな亀は漁業の神としても、また竜宮の遣いとしてもいろいろな伝説と物語を生み、海が埋め立てられ漁の習慣がほとんどなくなった現在においても連綿と語り継がれているのである。
いま、この亀の子神社に手を合わせて、奉納された亀の子だわしに見入るとき、早く流れる時代の移り変わりに流されることなく守られてきた信仰心がひしひしと伝わってくるようで、ありし日の本牧の風景がそくそくと思い出されてくるのである。