第三京浜道路が南北に分断する羽沢の町は、昔から人が住んできた歴史のある所です。
現在ではだいぶ宅地開発もされましたが、その合間には農地が広がるのどかなところで、路傍には今なおいくつかの石仏や庚申塔が残され、地元の里人たちによってお祀りされています。
そんな羽沢町の、ちょっと路地に入ったところに不思議な祠がありますよ、とお近くにお住いのMさまからご教示頂きましたので、さっそくやってまいりました。
木で出来た簡素な祠の中には、石の祠が祀られています。
この石祠は地元では「おしゃもじさま」と呼ばれて、文化3年(1806年)のものだそうです。
このおしゃもじさまには、その名の通りたくさんの「しゃもじ」が奉納されています。
文化3年といえば江戸幕府の中期にあたり、第11代征夷大将軍の徳川家斉公の治世のころで、時代劇で有名な火付盗賊改方の長谷川平蔵宣以が亡くなって11年の後のことです。
(「鬼の平蔵」はこのお話とは関係がありませんが、こうすると時代背景が分かりやすいかなと思いました)
この祠はもともと、長野県の諏訪あたりを発祥とする、「みしゃぐじ信仰」に起源をもつと考えられています。
その御神徳は百日咳などの呼吸器疾患の治癒や、口中の疾患の治癒に霊験あらたかな神様とされ、現在でも関東や中部地方には祠が多く残されています。
その名前が時代と共になまって「オシャモジ」となったと考えられ、また「石神井」などの地名となったものや、厚木市中荻野の「オシャグジサン」、厚木市上依知の「オシャモジサン」など、古い形式の祠にそのまま名前を残すものも見られます。
むかし、村の子供に百日咳の病気が流行ったことがありました。
百日咳とは、子供がよくかかった気道の感染症の事で、ぜんそくのように息苦しくなりヒューヒューという独特な呼吸音を出す病気です。
現在では有効なワクチンが開発されていますが、昔は常に子供たちの死因の上位を占める病気でもありました。
子供が百日咳などになった場合、ここからしゃもじ1本を借りて、そのしゃもじで子供をなでると病が治るという信仰があり、そのお礼として新しいしゃもじを添えて2本納める習わしがあったとされています。
また、あらかじめ子供が病にかからないように、とここから持ち帰ったしゃもじに子供の名前を書いて玄関に飾る風習もあったということで、その家の玄関のしゃもじを見れば、なんという名前で何人の子供がいるのか、が一目でわかるほどだったといいます。
今となってはこのような風習もだいぶ忘れられてしまったのかもしれませんが、この祠の中には今なおたくさんのしゃもじが奉納され、かつての羽沢のひとびとの信仰が篤かったことを物語っているかのようです。
いま、この小さな祠に手を合わせ、古くなってほこりをかぶったしゃもじを眺めているとき、かつて母親たちがここに一心に手を合わせてはしゃもじを持ち帰り、子供の咳が収まるようにと一心に子供にしゃもじを当てた遠い昔日の光景が目に浮かぶようで、ここにも時の流れというものをしみじみと実感したのです。
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