京浜急行北久里浜駅を起点に西側の山を登っていくと、遠くに東京湾を望む横須賀市営墓地があるが、そのふもとの小高く昼なおうっそうとした木々が生い茂る中に、清雲寺という静かなお寺がある。
むかし、康平6年(1063年)に源頼義より三浦の地を与えられた三浦為通は、この時に初めて三浦の名を名乗った。その日を境に三浦氏は勢力を強めていき、やがて衣笠城を築いたので、三浦為通は今となっても三浦氏の祖ともされている。
三浦為通の子であった三浦為継は、後三年の役で源義家に従い戦ったが、鎌倉権五郎景政が右目に敵の矢を受けた際、三浦為継が景政の顔に足をかけて矢を抜こうとすると、景政が武士の面目を汚したとして三浦為継を殺そうとしたという逸話は以前に紹介した通りである。
三代目となる三浦義継は源義朝に仕え、大庭御厨の乱入事件では、子の三浦大介義明とともに義朝に荷担している。
この、三代目の三浦義継が父である二代目三浦為継を供養するべく建立した寺が清雲寺であり、その創建は長治元年(1104年)と古く、現在は臨済宗の円覚寺派となっている歴史のある古刹である。
この清雲寺は現在ではこぢんまりとした静かなお寺ではあるが、現在でも三浦氏開祖と言われる三代の墓があるのは前記事で紹介したとおりである。
この清雲寺は、かつては広大な寺域を誇り、元禄時代にはその範囲は山全体に及んでいたのでこの辺りはクリ山と呼ばれていた。クリというのは庫裡から派生したものではないかと考えられており、現在では次第に忘れられつつあるが、今でも古老はこの辺りをクリ山と呼んでいる、とご近所のご婦人からお話を頂くことが出来た。
ところで、この清雲寺の門前の道から国道に向かって坂道をくだっていくと、道路わきに何の説明もない小さな鉄板が敷かれているのを目にすることが出来る。
実はこれは井戸の跡で、地元ではクリ山井戸と呼ばれてその水は霊験あらたかな霊水としてあがめられていたのだという。
この井戸の水は古くから大矢部の里では産湯として、また人の死にぎわに飲ませる末期の水として使われる慣わしであった。
この水を飲むと体内の穢れが浄化されるとも信じられて、病人が「クリ山の水が飲みてえ」と言えばどんな事があろうともその水を汲みに行き、飲ませてやったものだという。
いま、水道も発達してクリ山の井戸も使われなくなり、人が落ちると危険であるとして鉄板でふさがれ、案内板もなく山すそにひっそりと眠るようにして残されている。
その外見はあまりにもわかりづらく、みうけんも足を棒のようにして探した挙句に清雲寺のご住職にいろいろお話を頂いて、ようやっと場所が分かったくらいである。
この地もだんだんと世代交代が進み、新しい世代が新しい家を建てて移り住んできては、新たな時代を生きている。
いつか、この霊験あらたかなクリ山の井戸もしだいに忘れられてゆき、誰からも意識されずに埋もれていくのであろうかと考える時、決して誰にも止めることが出来ない時の流れの非情さを、ここにもしみじみと感じるのである。