三浦半島のほぼ中心部、訪れる人もあまりなく、最寄りの駅はと聞かれると首をかしげてしまうほど交通も不便な、阿部倉というところがある。
この阿部倉にはかつて阿部倉温泉という温泉がありハイキング客などでにぎわったが、その阿部倉温泉もずいぶん前に廃業してしまい、今ではひっそりとした街になっているが高台から眺める風光明媚さは実に独特であり、みうけんのお気に入りの場所の一つである。
薫風さわやかな春先、この界隈で原付を走らせていると道端にひっそりと咲くウラシマソウが、まるで浦島太郎が釣竿を上げているような姿を見せてくれており、実にうれしい気持ちになる。
この阿部倉のはずれには、こんもりと盛り上がった段の上に人知れずひっそりと建つ小さなお堂があるが、これこそが失明した武将が手探りで刻んだとされる両面地蔵を祀る両面地蔵堂なのである。
コンクリート製の狭い階段を上がって行くと、その上には扁額すらない小さなお堂がある。
そのお堂はカギはあるものの誰でも自由に参拝できるようになっており、中を拝観すると真ん中に小さな石仏が一基のみ祀られて真新しい花や線香が備えられ、いまなお地域の方々の崇敬をうけ大切にされているのが見て取れるのである。
合掌礼拝しておそばに近づくと、高さ25センチほどの自然石の両面に刻み込まれた地蔵菩薩のお姿が見えてくる。
お堂の隅には昭和6年と書かれて、今となっては判別も難しいほど墨が薄れた寄付金名簿が残り、「金伍拾銭」の文字にその歴史の古さをひしひしと感じるのである。
堂内には銅板浮彫の扁額があるが、これもそうそうは新しいものではないのであろう。
所はかわって、横須賀市久比里の里に平作川という川が流れ、ここにかかる夫婦橋の近くには天文16年(1547年)、まさに美濃国は斎藤道三の娘である濃姫が尾張国の織田信長に嫁ぐ2年前に開かれた浄土宗の古刹、真宝山宗円寺という寺がある。
その門を入りすぐ左側には綺麗なコンクリートの棚があり、ここにも阿部倉で見られたような両面地蔵がたくさん並んでおり、こちらもまた新しい花が手向けられてはうやうやしく飾られているのである。
これらの両面地蔵尊には、聞くも悲しき失明した武将の伝説が残されている。
その昔、平安時代の末期に鎌倉権五郎景政(かまくらごんごろうかげまさ)という勇猛の誉れの名高い武将がいた。
景政が16歳の時、源義家のもと奥州後三年の役(永保3年・1083年~寛治元年・1087年)で金沢城を攻めた時、敵に右目を射抜かれながらも奮戦してひるまず、敵をなぎ倒していく姿に驚いた三浦為次は、せめてその矢を抜いてやろうと景政の顔に足をかけた。
すると景政は突然に怒って三浦為次に切り付け、驚く三浦為次に対して
「我は武士なり。敵の矢に当り死ぬのは本望なれど、顔を踏まれることだけは勘弁ならぬ」と言ったのであるという。
それから月日も流れ、さすがの景政も寄る年波を感じるようになると、人間の極限と、抗えぬ最期の時を考えるたびにその悲しみを神仏に託して自らを慰め、世の中に数多い盲人の為にと、また自らの来世のためにと一念発起し、盲目の我が身にムチを打ってこの石仏を手彫りしたのであると伝えられているのである。
このような両面地蔵は、この他にも三浦半島の各地に残されている。
その由来は徐々に忘れ去られようとしているが、いまなお眼病を癒すと信じられてその信仰は篤く、此の日も白杖を携えた女性が手を合わせるのを見たのである。
その後、鎌倉権五郎景政じたいも信仰の対象となり、横浜市南部や鎌倉市、藤沢市に多く残る御霊神社の祭神ともなったが、冒頭で紹介した両面地蔵堂の周囲に咲き誇るシャガの花に囲まれ、静かに両面地蔵に手を合わせるとき、この小さな地蔵に一縷の望みを託して死後の世界を案じた、老いた景政の後ろ姿を想うとき、人の栄枯盛衰のはかなさととどまることのない時の流れをひしひしと感じるのである。