みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。

今なお信仰を集める 癪を癒した日限地蔵(横浜市港南区)

地下鉄下永谷の駅から歩いて10分ほどすると急に坂はきつくなり、その行き着く先は笹山城跡という城跡である。今となってはその面影もなく巨大な鉄塔が2本建てられて、街はすっかり様変わりしているものの日限山2丁目公園の前の道路はかつて堀切であったとされ、わずかに城の名残を残しているという。

 

この笹山城跡は、かつて大船にあり北条氏の拠点ともなった大規模城郭、玉縄城の支城であったといい、これといった歴史的な資料はほとんど残されていないが、城というよりも見張り台や狼煙台としての役割が濃い支砦であったのであろう。

 

かつて、この地域が宅地造成された時に鎌倉古道の「早駆けの道」に沿って土塁がハッキリ残っていたのが確認され、また開発工事中の際に古井戸や柱穴跡が発見されたと言われているものの、特に発掘調査もされないまま住宅街へと変貌してしまったのである。

 

さて、その脇に見える小坂を登る脇には、白地に黒で「日限地蔵尊」と書かれた看板が堂々と掲げられているが、これこそが不思議な伝説を伝えて今なお信仰を集める日限地蔵尊である。

 

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日限地蔵尊は正式には八木山福徳院といい、高野山真言宗の寺院である。

 

江戸時代の終わりごろ、このあたりの永谷村に住んでいた富農の飯島勘次郎は長いあいだ胃を患っていた。

今でいう胃痙攣であるが、当時は「癪」といって、事あるごとに胃がねじ切られるような苦しみにもがき、多いに困っていたという。


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神奈川新聞社の前身である横浜貿易新報社によって昭和10年に建てられた石碑)

 

そんなある日、いつもの激痛で転げ回って苦しむ勘次郎に、たまたま通りかかった一人の旅姿の僧から「伊豆の三島にある、蓮馨寺という寺にある日限地蔵を信仰しなさい。そうすれば癪はたちどころに癒えるであろう」と教えられたのである。

 

藁をもすがる気持ちの勘次郎であったから、さっそく旅仕度を整えると、その日のうちに伊豆を目指して東海道を下ったのである。

 

蓮馨寺にはすぐに着き、勘次郎は一心に祈った。すると、不思議なことに、それまで長らく勘次郎を苦しめた癪の痛みはまたたく間に消え去ったのである。

 

蓮馨寺の霊験にすっかり感動した勘次郎は、蓮馨寺の御分身を頂くと永谷村に持ち帰ったのである。


慶応2年(1866)の夏、現在の港南区と戸塚区の境となる舞岡の地にお堂を建てて祀った。


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そこは武蔵と相模の国境であり、今では住宅地としてすっかり切り開かれた舞岡も、当時は見渡す限りの山々が波濤のように連なって、人里から遠く離れた深山幽谷の趣きがあったことであろう。

 

時は流れて昭和3年(1928)、すでに朽ちていたお堂は勘次郎の子孫や村人たちによって修復され、高野山真言宗・八木山福徳院と号したのである。


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(先代法道和尚の像)


他に、長野と山梨にまつられている分身と合わせて「日本三体地蔵」の一翼をなし、御本尊様は高さ約八十センチメートルの地蔵菩薩像である。

 

毎月「四」のつく日は縁日として、まだ山奥で公共の交通期間もなかったこの地へ、伊勢佐木町あたりから着飾った参詣人が押し寄せ、また横須賀や逗子の漁師然とした人や、厚木あたりからは正装した村人たち、または東海道を歩く旅人も立ち寄って、露店もたくさん出てたいへんな賑わいだったという。

 

現在でも四のつく日には県内や都内から多くの参詣者が訪れ、今なお露店も出て、昔と変わらない賑わいを見せているのだという。


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この日は平日であり、縁日でもなかったために参詣者は他にはほとんどいなかったが、堂前にレンガで築かれた独特な香炉台には薪が赤々と燃えて、いつでも参詣者が線香をあげられるようにと準備も万端である。

 

いま、このあたりはすっかり切り開かれて住宅地へと変わったが、時代は移ろい時は流れても人々の信心は変わりなく、小高い丘の上からは地蔵菩薩衆生の生活を優しげに見守っているかのようである。