東海道線の大磯駅をすぎて小田原に向かう途中、線路右手に東小磯という集落があります。
この辺りまで来ると訪れる観光客もあまりなく、時折すれ違うのは地元にお住まいの方々と紅葉狩りを楽しむハイカーくらいなものですが、野山の間隙を縫うようにして走る細い小径をどこまでも原付で登っていきます。
すると、地元の方しか歩かないような生活道路の一番奥、もうすぐ行き止まりといったところの路傍に、大きく凹んだ地面がありました。
今となっては草木が生い茂り往時の面影はあまりありませんが、これこそが水不足に困窮する百姓たちを救った「善兵衛池」だというのです。
こんもりとした姿が特徴的な高麗山に抱かれたこの善兵衛池の歴史は古く、江戸時代にまで遡ります。
高麗山じたいは地元では夜景スポットとして、また観光や散策にと人気の高麗山ですが、この善兵衛池の存在を知るのは地元の方ばかりであろう、という印象を受けます。
江戸時代まで、この「宝山」の近辺はその名とは裏腹に水に乏しく、また平地も少ないことから工作には向かない土地で、それでもここで暮らさねばならない人たちは困窮に喘ぐ日々を過ごしていました。
そこで、地元でも人望が厚かった善兵衛という人がいて、地元の治水を改善しようと一念発起して陣頭に立ち、1600人もの人工と2年の歳月をかけてこの溜池を作ったというのです。
出来上がった溜池は東西24メートル、南北16メートルの広さを誇り、深さは4、5メートルにまで達して並々と水を讃え、付近に開墾された田畑に水を供給することによってこの地域一帯を水不足から救い、人々の生活の向上にも大きく寄与したということです。
文政2年(1819年)のこと、この功績は江戸幕府の老中にも大きく認められて賞賛され、白銀5枚を下賜されたばかりでなく苗字帯刀までが許される事となり、善兵衛はめでたく三宅性を名乗ったということです。
池のほとりに立つお宅は今でも「三宅」の表札を掲げています。
このように古くから続く名家の周りには、その一族の家が多く、同じ苗字の家で固められている場合が多いのですが、この界隈で「三宅」姓を名乗る家はここだけ、というのも面白いものです。
池のほとりには古ぼけた石碑が建てられています。
深くうっそうとした木立の中に残された石碑はこの三宅善兵衛の偉業をたたえたもので、二宮金次郎もこの旧跡を研究に訪れたそうです。
また、この周囲には横穴古墳がそのままの状態で残されています。
現在はそうことしてつかわれているようですが、これは「善兵衛池横穴墓群」と呼ばれており、この高麗山周辺に数多く残された横穴墓群のひとつです。
この高麗山周辺が、いかに太古の昔から人々の住む所であったかというのを物語っているようです。
今、時代は流れてはるかなる時流の果て、草木がしげり落ち葉で埋もれつつ善兵衛池に向き合えば、そこはすっかり埋もれてしまい、よく見なければ池であったことすらわからずに、ただの窪地にしか見えません。
しかし、かつて多くの人たちがこの池を生命線として生き、細々と耕作をしながらその日その日の命を繋いでいたことを思うと、ここにも昔の人々が繰り広げてきた偉業という偉業のひとつひとつに感嘆せねばおれないのです。