丹沢山塊を源流として秦野を経て、やがて相模湾に注ぎ込む川に金目川という川があります。
静かな清流の両岸にはのどかな田畑が広がり、そのすき間を埋めるように家が建つ里からは遠くに富士山を眺めることが出来、実に風光明媚な土地柄です。
この金目川のほとり、金目小学校の脇にある古刹が坂東観音霊場の第7番目の札所となる金目山 光明寺(かなめさん こうみょうじ)です。
この光明寺の創建は古く飛鳥時代にまで遡るとされていますが、大宝2年(702年=1307年前)に、大磯の浜で海女の桶にいつの間にか小さな金剛仏の仏像が入りました。
それを見た修行僧が、「これぞ聖徳太子の作られた仏像に違いない」と教え(どんな根拠があってそんな事を言うか分からぬがw)、その海女はその金剛像を大切にお祀りしたのが、今に伝わる光明寺の始まりだそうです。
なお、現在は秘仏となっており、次回のご開帳は2034年だそうです。
また、本尊は聖観世音菩薩で常日頃から参詣人も多く、人々の信仰を集めてその霊験もあらたかです。
この光明寺の山門には立派な仁王像が鎮座されています。
筋骨隆々とし、見るからに恐ろしげな顔をして観音様を守り抜かんとする信念を感じる仁王様ですが、この仁王像についての面白い民話が残されています。
昔の人々は今よりもずっと信心深く、この光明寺にも数多くの参詣人が集まったそうです。
しかし、昼間こそ次々と訪れて列をなす参詣人たちも、夜にでもなればぱったりと途絶えてしまい人気がなくなってしまうのが日常でした。
昼も夜もじっと固まったまま目を見開いて参詣人たちを見守ってきた仁王さまですが、夜にでもなると誰も来なくなるので退屈で仕方がありませんでした。
そんなある日、とても月が綺麗な満月の日に
「今日はたいそう月が綺麗だ。
よし、たまには月見でもしながら娑婆の世界を見物でもしてくるか。どうせ夜には誰も来ないのだ、朝までに戻っていれば誰も気が付くまい」
と仁王門を抜け出して、ドスドスと足音を立てながら街へ向かって歩いて行ったのです。
いつも眺めている仁王門からの風景とは打って変わって、何もかもが珍しい光景に心を躍らせた仁王様は、朝までに戻るという心の誓いはどこへやら、観音様を置き去りにして仁王門を留守にするという禁忌はどこへやら、とてもウキウキして里人たちが寝静まった里を眺めて歩いたのでした。
そんなとき、ある家から灯りが漏れているのに気が付きます。
他の家はすっかり寝静まっているのに、はてどうしたことかと窓から家をのぞき込むと、一人のおばあさんが黙々と巨大なわらじを編んでいるのが見えました。
人間が履くににしてはあまりにも大きいので、あれは仁王門に奉納されるわらじであるな、と悟った仁王様は、そのおばあさんの信心に感心しながら、わらじを編んでいく姿が珍しくてじっと眺めていました。
すると、突然おばあさんはもぞもぞと腰を動かし、とても豪快な音を立てながら大きな「おなら」をしたのです。
その姿に思わず仁王様はクスクス笑ってしまいましたが、その笑い声を聞いたおばあさんは、てっきり誰か村人が聞いていたのかと思って「におうか~??」と問いかけたのです。
おばあさんは「臭うか?」と聞いたつもりでしたが、仁王さまはびっくり仰天。
おばあさんがいつの間にか仁王様がいる事を察して、「仁王か?」と聞いてきたのかと思ったのです。
自分は姿を見せていないのに、たちまち見破られてしまった。
人間の世界には、なんとおそろしい婆さんがいるものだ───。
仁王様はすっかり怖くなり走り出すと、あわてて里を飛び出して金目川に転げ落ちながら、ほうほうのていで仁王門に逃げ帰ったという事です。
これにすっかり懲りた仁王様は、それからは決して仁王門から抜け出したりせずに、今日も変わらずに参詣人の姿をじっと見守り続けているという事です。
いま、この仁王様が動くことはありませんが、通常は訪れる人を見据えている仁王様が多いなかで、ここの仁王さまは参拝者から目をそらすようなしぐさを感じます。
やはり気まずいのかな、と考えるとこちらもクスリと笑ってしまいそうです。
この時も坂東観音めぐりの方が数人訪れていて、この方たちもきちんと仁王様にも挨拶をされていたのを見て、現代人の信心まだここにあり、とうれしい気持ちにさせられました。
みうけんも一通り読経させていただき、お線香をあげて御朱印を頂戴してきました。
この光明寺に詣でたのは、平成21年に坂東三十三観音を徒歩と公共交通機関のみで巡って以来かもしれません。
久々に訪れた光明寺が実に懐かしく、とても清々しい良い旅となりました。