平塚市の東側、悠遠のかなたを思わせるように流れる相模川に沿って原付を走らせていきました。
そのとちゅう、「札場町」という、いかにも東海道沿いを思わせるような町名の町にさしかかりました。
この「札場町」の住宅街の中にあるのが、真言宗寺院である花扇山 乗蓮寺です。
この乗蓮寺は江戸時代後期に編纂された、「新編相模国風土記稿」の「大住郡 八幡庄 須賀村」の項において
花扇山 観音院と号す。
本尊十一面観音、長三尺三寸、行基作。
当寺も古は長楽寺の塔中なりしと云。
と簡潔に紹介されています。
この御本尊さまをお造りになった行基菩薩さまは、「新編相模国風土記稿」ではありとあらゆるところの仏像をお造りになっているように伝えられていますが、いったい何体の仏像をお造りになったのでしょう。
また、この記事とは関係ないのですが、この乗蓮寺の門前にお立ちになっている仁王様はホッコリするような、独特なお顔立ちをされていて個人的には大好きです。
この仁王様は、時代が令和となった現代においても地域から根強く信仰されているようです。
阿・吽の像ともに首からわらじがかけられ、しっかりと見開いた目で今なお里人たちの暮らしを見守っておられます。
さて、この乗蓮寺の本堂裏側、広々とした墓地に一礼して中へ入らせていただきました。
知らない人の墓地を見て歩く旅というのも何とも酔狂だな、と自分でも思いますが、ここにある無機質な墓石のひとつひとつにはいろんな人の人生が込められており、そのどれもが壮大な人生ドラマを秘めていた事を思うと実に感慨深いものがあります。
その、墓標がどこまでも居ならぶ典型的な墓地の奥のほうに、大きく割れてしまった「田中家」の墓石を見つける事が出来ます。
この大きく割れてしまった墓石は、戦争の激しさを物語る戦争遺跡として知られています。
神奈川県の空襲と言えば横浜大空襲が有名ですが、ここ相模湾ぞいの平塚市にも大規模な空襲がありました。
大東亜戦争も末期となった昭和20年平塚市では6回の空襲があり、
2月16日・17日
4月12日
7月16日・17日
7月28日
7月30日
8月13日の6回が記録されています。
その中でも、規模が大きかった7月16日・17日のものを特に平塚大空襲と呼んでおり、132機ものB29爆撃機が来襲し、投下された焼夷弾は全部で44万7716本にのぼったとされています。
これによって平塚市は死者328人、重軽傷者268人、被災した家屋7678戸という甚大な被害を出しました。
ここ乗蓮寺の田中家代々の墓石は、左側が大きくえぐりとられるようにして欠損していますが、降り注いだ焼夷弾の威力が、熱が、いかにすさまじかったものか。
まるで、その炎に焼かれて息絶えていった人々の無念と苦悩を今に語り掛けているかのようです。
このころ、このように空襲によって損壊した墓石の数は数知れず、終戦後しばらくしても倒壊したままの墓石も少なくなかったといいます。
死してなお、現世の火焔に焼かれていくその苦しみはいかばかりであったのでしょう。
空襲による火は、まさに人間の貪瞋痴がなしえた業火そのものだと思います。
地獄の業火と違うところは、その業火によって焼かれていったのは罪もない無辜の市民であったということだけです。
いま、平和な世をかみしめながらこの田中家の墓標に向き合う時、思わずしっかと手を合わせ、そう遠くないむかしに自らの祖父母が体験した、あの戦争の惨禍を再び繰り返すまじ、と心に難く誓ったのです。
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