平塚市の相模川の河口に近いところ、眼前に海が望めようかという高浜台のあたり、駐車場の片隅にひっそりと石仏が並んでいる一画があります。
その中でもひときわ目立つのが、見上げるような石の台座の上にお座りになっている阿弥陀如来の坐像で、地元では「お阿弥陀さま」と呼ばれて親しまれている、という事です。
その周囲には、江戸中期より少しあとの寛政3年(1791年)の「南無阿弥陀仏」の念仏石塔を中心として、崩れてしまってよく読めなくなってしまった石塔か、もしくは墓石のようなものが無造作に並べられているのを見てとることができます。
その中でも、「水陸幽顯法界舎識」の石塔は天保13年(1842年)のものです。
上には阿弥陀三尊、すなわち阿弥陀如来・観世音菩薩・勢至菩薩の梵字を掘り込んで本尊とし、その下には「水陸幽顯法界舎識」と陰刻されています。
「水陸幽顯法界舎識」の「幽顯」とは、今生きる現世と死後の世界を指す言葉、「法界」とは全宇宙からなるすべての世界をさします。
水陸を含んだすべての霊魂に対する供養塔として、この石塔が建立されたのでしょう。
ここで最も大きな、見上げるような阿弥陀如来様の坐像は弥陀定印(みだじょういん)という印を結び、しっかりと海の方を眺めてお座りになっておられます。
台座も含めた高さで4メートル36センチ余りだそうで、実際に前に立つと見上げてしまうくらいの威容を誇っています。
かつては、この阿弥陀如来様のお足元には身元不明の水死者がたくさん葬られていたそうです。
石像は宝永年間(1701年〜1710年)、海宝寺の覚誉上人によって建立され、その後改修を繰り返して現在に至ります。
そのご尊顔を拝しておりますと、端正なお顔立ちのなかに、しっかりと唇を結んで海の方を見据えるそのさまは、一人でも多くの遭難者の魂を救わんとする不屈の信念が伝わってくるかのようで、見ているこちらまでもが身の引き締まる思いです。
かつては相模川河口に近い松林の中にありましたが、何度かの移転を繰り返して現在の地に落ち着いているということです。
言い伝えでは、この阿弥陀如来さまは弘法大師がお彫りになったという話もありますが、弘法大師と行基菩薩は仏教界では神出鬼没(失礼)に登場するので、実際のところはどうでしょうか。
この阿弥陀如来さまは、かつて海での遭難者の供養塔として使われており、身元が分からない水死者が多く葬られていたといいます。
そのために今なお台座にはしっかりと「海上安全」の文字が刻まれ、その周囲には水死者を弔う石塔が多く残されており、今なお毎月16日には念仏と御詠歌をあげる慣わしだそうです。
また、毎年8月16日は縁日とされ、近隣の漁業関係者によって「浜施餓鬼」の行事が開かれて、海難者の供養が行われているのだそうです。
いま、この開かれた空間の中に無言でお座りになる阿弥陀如来さまを見上げ、静かに真言を唱えて手を合わせるとき、かつてこの阿弥陀如来さまの足元に葬られた幾多の水難者の魂が癒やされていく姿が目に見えてくるかのようで、ここにもかつて海に行きた人たちの、決して楽ではない生き様がしみじみと思い起こされてくるのです。
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