日本全国に残された石仏の中で、庚申塔というものがあります。
この庚申信仰は当ブログでも過去にたびたび取り上げていますが、人間の体内に住むと信じられていた「三尸(さんし)の虫」が干支の「庚申」(かのえさる)の日の晩、人間の体から抜け出しては人間の悪事を閻魔大王に告げ口に行くと信じられていたことから、三尸の虫が体から出られないように庚申の日は夜通し起きている習慣がありました。
その集まりがいわゆる「庚申講」であり、無事に朝まで起きていた記念、強いて言うならば極楽浄土への道すじを保証できた記念として建てられたのが、今なお各地に数多く残されている庚申塔であるとされているのです。
この庚申塔は石塔に「庚申塔」と文字だけを陰刻したもの、豪奢な彫刻で青面金剛を彫刻したものなど、いろいろなものが残されました。
彫刻をほどこしたものは、この写真のように青面金剛の下に踏みつけられた邪鬼と、「見ざる・言わざる・聞かざる」と表現された「三猿」が彫刻されたものが多く作られました。
しかし、中には例外もあるようで、猿が5匹いるもの、4面の石塔の周囲にたくさんの猿が彫刻されたものなど珍しい造像例も多く残されています。
さて、ところ変わりまして横浜市南部の住宅街、港南区に来ました。
この港南区は昭和の成長期に住宅地として切り開かれたベッドタウンで、今となっては一面の家々で埋め尽くされたところです。
その住宅街の中にひっそりとたたずむ墓地に、とても珍しい庚申塔がありますよ、とのご紹介をいただいてさっそく拝観させて頂きました。
この庚申塔は、「唐破風屋根付き庚申塔」というものだそうです。
江戸時代前期の元禄14年(1701年)、江戸幕府の第5代征夷大将軍である徳川綱吉公の治世の頃に建立されたものだそうです。
だいたいの庚申塔には中心に青面金剛を据えますが、この庚申塔は大きく開いた蓮華の花に「南無阿弥陀仏」の六字名号を載せただけのもので、一見すると庚申塔とは思えず、よく寺院にあるような名号塔かと思ってしまいます。
しかし、よくよく見てみれば右の側面には「奉造立 庚申供養塔」と刻んであるのがわかります。
このことから、あくまでもこの石塔は庚申塔として建てられたものであり、青面金剛ではなく阿弥陀如来と、「南無阿弥陀仏」の名号を主尊とした大変珍しいものです。
先ほども書いたように庚申塔のもう一つのシンボルと言えば三猿ですが、この庚申塔には三猿の姿すらありません。
では、猿はどこに行ったのかというと頂部に1匹の猿が見えます。
なんと、この猿は桃の実の付いた枝を持って、落ちないようにと必死にしがみついているのです。
このような庚申塔は「頂猿型庚申塔」と呼んで、たいへん珍しく、型破りな庚申塔であるということです。
昔から、桃というものには強力な霊力があるとされ、災難を防いで魔を退ける神聖な果物として信仰されていました。
さらに、農家の間では増産と福守、子授けの守護神として盛んに信仰され、その経緯で「桃太郎」の話などが出たのかも知れません。
他に、港南区の下永谷神明社の庚申塔の猿(下写真の左下)も、桃を持った姿で表現されています。
古来、中国では桃は邪気を祓い、不老長寿を与える妙薬として珍重されていましたから、延命と長寿、極楽浄土への約束を祈る庚申塔には時折姿を見せます。
初夏の風が気持ちよく抜ける平日の朝、草いきれの香る墓地の中で一匹の猿に向き合う時、この石塔を建立したひとがどのような思いでここに猿を載せたのかという不思議な疑問が湧きおこり、かつてこの里に生きた人々の想像力と素朴な信仰心に感心するばかりです。
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