厚木の中心地より日向薬師へと向かって、玉川の流れを遡上していきます。
とちゅうのどかな田園風景が心を和ませてくれ、スロットルを握る手も軽やかになる心地よいところです。
このあたりは鎌倉時代、 愛甲氏が治めていたところであったといわれています。
愛甲氏という一族は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて相模国で大きな勢力を持っていた一族で、その勢力は武蔵国まで及びました。
現在の相模原あたりを拠点とする「横山党」の一族とされ、平安時代の終わりごろに横山党の山口季兼が相模国愛甲郡愛甲庄を領したことから、その子であった三郎季隆が初めて愛甲氏を名乗ったのが始まりとされています。
(英雄百首:夜ならば こうこうとこそ 鳴べきに あさまにはしる 昼狐かな)
愛甲三郎季隆は、源頼朝による鎌倉幕府設立に大きな貢献をした人物でもあり、鎌倉幕府の重鎮としても一目置かれた存在でした。
鎌倉幕府の御家人の中でも、弓の名手として名を馳せていたことから、鎌倉幕府2代将軍となる源頼家の弓の先生も務めたそうです。
そんな愛甲三郎季隆にまつわる史跡が、ここ厚木市の小野に残されています。
「縁切り橋の石碑」です。
そのむかし、丹後の局(たんごのつぼね)が日向薬師を参詣するおり、愛甲三郎季隆が案内役をつとめていたことがあったそうです。
丹後の局はたいへんな美女で、源頼朝の寵愛を受けた愛妾でしたが、正妻の北条政子よりも先に源頼朝の子を妊娠したがために、気性激しく嫉妬深かった北条政子によって追われる身となった人物といわれていますが、その存在そのものも含めて謎が多い人物です。
丹後の局が日向薬師を参内中、北条政子が差し向けた刺客によって館を焼き討ちされた愛甲三郎季隆の怒りはたいへんなもので、それがもとで北条氏と袂を分かつ決心をしたのが、この縁切り橋のあった所だと言われています。
この亀裂は大変に深く、また三浦氏傍流であった和田氏と姻戚関係にもあったことから、和田氏と北条氏が戦った建歴3年(1213年)の和田合戦にて愛甲三郎季隆は和田方について戦います。
しかし、結局は戦に敗れ、鎌倉の由比ヶ浜で壮絶な戦死を遂げたばかりか、この戦いによって愛甲氏の一族は断絶に近いほどの壊滅状態となり、そのまま歴史の表舞台からは姿を消してしまったのです。
このようにして悲運の最期を遂げた愛甲氏とその一族ですが、近くの愛甲小学校の校章は愛甲三郎季隆の家紋であった「丸に三つ引き」をもとにデザインされたものです。
また、毛利台小学校の校章は三つの矢羽根を組み合わせたもので、これは厚木市の毛利庄に先祖を持つ戦国大名であった毛利元就による「3本の矢」の話から生まれたものだそうです。
さらに、南毛利小学校と中学校の校章は「五山の桐」で、これは鎌倉時代に相模の毛利庄(厚木市・愛甲郡)を領した毛利氏の子孫が功績をたたえられて正親町天皇より下賜された家紋を使用したものです。
このように、厚木市近辺の教育者たちはかねてより「わがまちの歴史」を大切にし、親から子へ、先生から生徒へと語り継いでいるのが素晴らしいところであると思います。
いま、初夏の爽やかなる薫風かおる厚木の地で、ひとり縁切り橋の木のしたにたたずみ石塔に手をあわせるとき、かつての武将たちがこの地で謀略と戦いに明け暮れた昔日の思い出が鮮やかによみがえるかのようで、ここにも時の流れのはかなさを思い出したのです。
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