みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。※現在アップしている「歴史と民話とツーリング」の記事は緊急事態宣言発令前に取材したものです。

愛車はヤマハのシグナスX。 原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。
風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。
※いままではカタい文章の書き方でしたが、徐々に改めていきます。

朝廷とともに戦った悲運の武将 三戸友澄の墓所(三浦市)

大海原の果てに秀麗富士を望む風光明媚な三戸の浜から、内陸のほうに原付のハンドルを向けました。とちゅう、宝徳寺の前を通り過ぎると道は突き当りとなり、半分土に埋もれかけた「三戸公園」の石柱を見つけることができます。

 

その石柱の上の方には、よくよく見ると「承久忠臣三戸友澄(みと ともずみ) 主従墳墓招魂碑道」と印刻されているのが読み取れるのです。

 

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この脇には、民家と崖にかこまれた道というか、かろうじてコンクリートが敷かれた細い登り坂が見えてきます。

 

まるで獣道のような道で、さすがにこの道は原付では登っていけないので、近くに停めさせていただき徒歩で登っていきました。

 

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途中、左手に階段を見つけました。

コンクリートブロックを並べただけの簡素なもので、足元には相当な注意が必要です。それでも、これだけのコンクリートブロックを運んで来てはひとつひとつ並べた方が誰かしらいるわけで、その人の苦労が思い浮かばれます。

 

この階段を上り詰めたところが、かつて「つつじ公園」と呼ばれたところで、現在は鳥居が建てられているのが目に入ります。

 

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このコンクリートブロックの階段を登る人は、今ではほとんどいないのでしょう。地元の間でも、若い世代へと世代交代が進む中で、ここの存在は忘れられつつあるのかもしれません。

 

木の棒を振り、大きな蜘蛛の巣を払いながら60段近くの階段を登りきると、そこはうっそうとした木々に囲まれたところで、聞こえてくるのは鳥の声ばかりといった静かなところです。

まず目に入るのは、若い木に守られるようにして立つ石の祠たちでした。

 

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その奥にあるのが大正10年(1921年)に「初声村史蹟名勝保存会」が建てたとされる石碑で、表面には「三戸友澄招魂碑」と記され、その左下に「子爵三浦基次書」と記されているのが読み取れるのです。

 

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ただ、先ほども書いたようにこの石碑は大正時代という比較的新しいもので、本来の三戸友澄主従の墓とされるのはその裏手にある五輪塔たちなのでしょう。

 

この五輪塔たちは、すっかり崩れてしまって、もともと何基分のお墓であったのかすらはっきりしませんが、ずっと昔からここにあり、ここの里人たちの間で三戸友澄の美談とともに代を継いで語り継がれてきたのでしょう。

 

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ここに出てくる三戸友澄とは、いったいどんな人物なのか史料を探してみました。

まず、三戸 友澄(みと ともずみ)は、鎌倉時代前期の三浦一族の武将。三浦義澄の子で、有名な三浦大介義明公の孫にあたります。

 

しかし、吾妻鏡などを見てもその名が出てこないなど、いまいち史料に乏しい武将でもあります。

すると、浜田勘太氏による「初声の歴史探訪記」に裏面の漢文を読み解いたものが記載されていたので、引用させていただきたいと思います。

 

深い森の中に大松があり、その下に古い墓が苔むしていた。

そこに、偉人が安らかに祀られている。

その人は、誰あろう十郎、姓は三戸名は友澄といって三浦党の勇将である。

内田、荘司、海戸の三家は、皆優れた家臣である。

承久の乱の賊が謀反して天運が危うしとみるや、奮然として皇軍の守りに向かった。

しかるに湖南の戦に破れ、刀や矢傷を受け馬も倒れ、天運もつき、友澄もまた討死した。

家人達は、その首をたずさえて、故郷に葬った。

それから七百余年、ここに山海の幸を供え、酒を添え、これを祀り、村人皆手を合わせて、その忠魂をしのびうらやらんだ。

その魂は、大地に忠節の士としてあることであろう。

 
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承久の乱(じょうきゅうのらん)とは、鎌倉時代の承久3年(1221年)のむかし、後鳥羽上皇鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐令を出して挙兵したものの、あえなく破れてしまった戦乱です。

 

鎌倉幕府という武家政権を打倒して、政治をふたたび朝廷と皇族の手に戻し復権させようとしたものですが、結果は朝廷側の大敗に終わり、北条義時は武力により朝廷を打倒した唯一の武将となりました。

 

三浦一族の肝いりで鎌倉幕府が成立したものの、北条一族が権威を振るうなかで徐々に三浦一族と北条一族の亀裂は深まっていきます。

その結果、鎌倉幕府を打倒せんとした承久の乱があるのですが、祖父が力を尽くして打ち立てた鎌倉幕府を自らの手で打倒せんとした三戸友澄の最後の心境たるや、さぞかしの無念だったであろう事が容易に想像できるのです。

 

この、ひとけのないうっそうとした森の中で、しばし膝まづいて崩れ落ちた五輪塔に向き合いました。

すると、まるで無念の死を遂げた悲運の主君の菩提を弔い、日々ここに供え物をして言葉もなく手を合わせる生活を送った、かつての家臣たちの寂しげな後ろ姿がにわかによみがえるようで、ここにも時の流れの無情さというものをひしひしと感じるのです。