相模湖畔の南側、風光明媚な山の中を縫うようにして走るのが神奈川県の県道517号線です。
この辺りは最近まで神奈川県津久井郡藤野町という町でしたが、最近になって相模原市へと合併されて相模原市の一部となりました。
道沿いにチラホラと民家は立っていますし、そこそこ若い世代もいなくはないようですが、携帯が完全に圏外となってしまうので、常日頃スマホを手放せない身としてはちょっと心細いものがありました。
さて、この県道517号線には、2つばかり待避帯のような脇道があります。
本線から分岐したかと思えば、すぐに弧を描いて本線に戻るものでちょうど高速道路にあるバス停のような感じです。
しかし、そうかと思えば入り口にフェンスというか柵があるので、自動車で中に乗り入れることもできません。
この施設がなんであるのかこれといった表示もなく、パッと見ではなかなかに謎の施設ではあります。
この道は、いったい何なのだろう。
不思議に思って原付で入り込んでみると、その奥にはひっそりと、庚申供養塔と馬頭観世音の石碑が残されていました。
庚申供養塔は胸の前で手を合わせた六臂像で、今まで見た中では比較的簡素な作りのものであると思います。
脇には「元文二年丁巳年霜月吉日 再建昭和三十二年二月吉日 河内繁雄書」とあります。
昭和32年(1957年)に再建されたとはいえ、もともとは元文2年(1737年)に作られたのが最初だったのでしょう。
元文2年とは江戸幕府第8代将軍、徳川 吉宗公の治世にあたり、時代劇好きな方なら一度は聞いたことがあるであろう「鬼平犯科帳」の主人公、長谷川 宣以が生まれる8年ほど前になります。
その脇に安置されている馬頭観世音の石碑は、ぐっと時代も降った大正13年(1924年)3月のもの。
「施主 河田富之助」の文字がうっすらと読み取れます。
これは牛馬を供養したものと思われますが、このようにわざわざ石碑を建てるというのは余程の愛着があったのかもしれません。
そこから少しだけ北上していくと、また同じように枝分かれして脇道となっている一角があります。
ここには石仏ではなく、自然石を利用したそのままの石碑が残されていて、通る車はほとんど気付くことすらなく通り過ぎて行きますが、これもこの地で遥かなる時代を生き抜いてきた里人たちの悲哀を伝える石碑なのです。
この石碑は表面にしっかりと「平和記念碑」と陰刻され、その造像はまだ新しいもののようです。
裏面にはこの石碑に関する説明が加えられており、その説明文を下に引用させて頂きたいと思います。
碑文
この地は明治五年に国軍が創設されてから七十年余りの間 国の守りにつく兵士たちと 見送りに来た親族や村人たちが 最後の別れを告げた所である それ以来 人々はこの地を「兵隊送りの地」と呼ぶようになった 命をかけて出兵していく人 その兵士の武運を祈って見送る人 きびしい時代に生きた人々にとって忘れ得ない因縁の地である
そこで 私たちは 大戦の反省から永遠の平和を祈念するとともに 当地の歴史の一頁を後世に伝えるため ここに平和記念碑を建立する
平成三年八月十五日 篠原・牧馬平和記念碑建立者一同
この碑文を読み終えて周囲を見回してみると、どこまでも続く青々とした里山の上にはどこまでも続く雲海が広がり、その下には大きなトンビがゆうゆうと円を描きながら滑空しているのが見えました。
おそらく、この光景は今も昔も変わらずに、この地の日常の光景としてあり続けたのでしょう。
今から遡ること数十年の昔、考えてみればそう遠くない時代の中に、この空の下で日の丸を掲げて出征していった若き兵士たちと、その姿を見送った家族たちの心情はいかばかりだったでしょうか。
大戦も末期になると、還らぬ人となった方も多かったことでしょう。
大きな歓声のもとに見送って行った自分たちの家族が、次は白木の箱に入ってはこの道を辿り、声なくして生まれ故郷に帰ってきたこともあったであろう事を思う時、ここにも時代というものの無情がひしひしと蘇るのです。