みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。※現在アップしている「歴史と民話とツーリング」の記事は緊急事態宣言発令前に取材したものです。

愛車はヤマハのシグナスX。 原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。
風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。
※いままではカタい文章の書き方でしたが、徐々に改めていきます。

主君への思いに一生を捧げた 忠義の武士の「塚の古址」(横浜市港南区)

横浜市の南側、港南区に野庭と書いて「のば」と読ませるところがある。

港南台や本郷台の駅の北側にあたり、今なお坂道きつく、かつては鬱蒼とした山深い密林のようなところであったであろう事が、容易に想像できる場所である。

 

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はるか昔の戦国時代、この辺りは小田原に拠点を置く北条氏によって支配されたところであった。

関東全域を勢力下に置いた小田原北条氏は関東の覇権をめぐり、越後の上杉氏や甲斐の武田氏とも壮絶な戦いを繰り広げながら決して負ける事もなかったという。

 

しかし時は流れて豊臣秀吉による天下統一の機運が高まると、天正18年(1590年)の石垣山の一夜城で有名な小田原攻めが始まり、4か月に近づくような必死の抵抗もむなしく小田原城は落城し、北条氏政切腹をはじめとして北条氏はことごとく滅亡して果てたのである。

 

その混乱に乗じ、豊臣軍に降ることを良しとしなかった吉本氏という武将がいた。

吉本氏は一人逃れて身を隠し、巧みに落ち武者狩りをかわしながら、ようやくここ野庭の里に安住の地を見出したのである。

 

見渡す限り山、山、山の一寒村であった野庭は隠れ住むには絶好の地で、ここで名を「臼居」と改めた吉本氏は農民に身を落としながら、ひそかに再起の時を狙ったのであった。

 

だが時は流れて北条氏の再興が絶望的となるや、なつかしき小田原の地を想う心を抑えることはできず、一日も欠かさず朝な夕なに近くの小高い山に登っては西の方を眺めていたという。

 

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やがて臼井氏も年老いて野庭の里ではかない生涯を終えることとなったが、その小高い丘の上に、西に向けて棺を埋葬してほしいというのが遺言であったという。

 

 

時は流れて昭和27年(1952年)、子孫である上野庭の臼居氏は先祖を葬ったとされる野庭と金井の境にある武相国境の丘に、祖先への祈りと願いをこめて碑を建てた。

これが現在も吉本氏の悲しい哀話を今に伝える、「塚の古址」なのである。

 

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現在では宅地化の波に押されて地面は削られ、がけは崩されて往時の姿を偲ぶよすがもないが、もともとこのあたりは野庭では最も高い所であり、晴れた日には小田原の海がよく見えたようである。 

 

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しかし、この碑も時代が下るにつれて現在は日野南五丁目にある、野庭三谷町公園という小さな児童公園の脇に残された小高い丘の上に移され、もとの場所からはずれてはいるものの、今でも大切に守られて、かつての主君であった北条氏政や、小田原城のあった西の方角を見つめ続けているのである。

 

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いまとなっては、この碑のみを目的として訪れる人もほとんどないようであるが、ここには確かに戦国武将として一世を風靡した名族・北条氏と、その家臣であり、家臣であることこそに生涯を捧げた忠烈の一族・吉本氏の悠遠なる伝説が確かに伝えられているのである。

 

かつての吉本氏は臼井氏と名を変え、現在もその御子孫は近くにお住いのようである。

ぜひ、一度はこの丘の上に立ち、遠く悲しい伝説を伝える塚の古址の石碑とともに、在りし日の小田原に思いを馳せてみてはいかがだろうか。