三浦半島西岸の三崎街道を南下し、自衛隊武山駐屯地のあたりで道路は海沿いから内陸へと入っていくが、そのあたりの左手の小高い丘の中には昔ながらの集落が残っており、その中に「黒石」と呼ばれるところがある。
黒石という地名は、道の脇に地中から頭だけをのぞかせた大きな岩があるところからつけられた名前だともいわれ、その黒石の反対側には「塔の石」と呼ばれる巨石があり、その上には六地蔵が祀られて、その道を通る人々を昔ながらに見守っているのである。
この黒石のあたりは、永正12年(1515年)に小田原北条氏と三浦氏が争った古戦場としても知られている。
三浦氏は現在の秋谷の大崩といわれるところで必死の防戦を試みるも、ついに長坂、黒石まで追い詰められていき、やがて新井城へと敗走していくこととなるのである。
確かに、この黒石のあたりは地形は急峻で兵馬の動きも取りづらく、守るに易く攻めるに難しといった天然の要害であったようで、近くには「身洗川」という小川が残されているのは以前も紹介したとおりである。
戦いに傷ついた武士たちがその体を洗ったという伝承が残るこの川も、もとは堀の役目をしていたと考えられるのである。
また、「新編相模風土記稿」によれば、黒石から約100メートル東北には「鬼三郎込」と呼ばれる地があるが、これは「鬼侍込」のことであり、三浦道寸の軍勢が籠っていた所だと考えられるという。
このあたりは、長井村と林村の村境に近いことから、六道を輪廻転生する民衆を救済する六地蔵や、庚申塔、「南無妙法蓮華経」の文字が刻まれた題目塔などが今なお多く残され、黒石や塔の石とともに、これらがかつての古戦場であった所にふさわしい雰囲気を醸し出しているのである。
いま、戦乱の時代ははるか昔へと過ぎ去り、今となってはトンビが悠々と旋回し、ほのかな潮風を感じるのどかなところであるが、紛れもなくこの地も戦場となり、数多の者が命を落とした事であろう。
いま、南無妙法蓮華経と陰刻された御首題塔が居並ぶ丘の上から眼下の家並みを眺めるとき、かつてここで散って行った武者たちの無念がいままたここで思い起こされるようで、ここにも時代の移り変わりというものがしみじみと思い起こされるのである。