夏も終わりに近づいた9月の初め、さわやかな風を全身に浴びながら原付で横須賀の里を駆け抜けると、途中で見えてくる見事な段々畑から上がってくる潮風が実に心地よく、日ごろ搾取されている身のストレスを一気に発散することができる。
道はどんどん細くなり、農業用の軽トラックが1台やっと通れるであろうという細い山道を原付で軽快に抜けていくたびに、車(セレナ)を手放して原付に乗り換えたことへの意義をしみじみと感じられるのである。
原付は彷徨うようにして山あいを走り抜け、やがて畑などが多く残る林というところに出ると、山々の合間の谷戸に畑が広がり、その隅にぽつん、ぽつんと家が建つ日本の原風景がみられるようで、実に好きなところである。
この山あいの畑を走っていくと、須軽谷(すがるや)という谷戸の山裾に小さな、しかして真新しい祠がひっそりと祀られているのであるが、これこそが三浦半島に生きた武将たちの痕跡をひそかに伝える、身洗川の水源を今に示す水神様なのである。
ここを水源として流れる身洗川という小川は、かつては水量も豊かで水質も甚だよかったことから、海軍の簡易水道としても利用されるほどであった。
豊かな水は谷を潤し、田畑を潤して、人々の生活を支えてきたのである。
今となっては農地改良によりすべてが畑となってしまったものの、かつてはこの周囲には谷戸田が一面に広がり、身洗川の豊富な水を順々にひいて、多くの米を産出したのであろう。
また、明治の終わりごろには下流に水車を作っては粉を引いたり、水をせき止めた洗い場があったりとして実に里人たちの生活の中心であったのである。
この身洗川は、かつてこの近くで戦があった時に、武士たちが体についた血糊や、刀についた血糊を洗い清めたところであるとされ、さらに多くの里人たちがこの川で行水を行ったことから名づけられた名前である。
また、この川では実にたくさんの魚が捕れた。
フナ、コイ、ナマズ、ウナギからタニシ、カニ、ドブガイなどがたくさん取れて、それらは里人たちの食卓を飾り、また貴重な蛋白源として日々の暮らしを支えていたということである。
だが、今は暗渠のようにコンクリートで固められ、流れくる農薬のためもありほとんど生物は見受けられず、数匹のカワニナがいた程度である。
川には行政による案内の看板も乏しく、数々のドラマを秘めた身洗川は、このまま歴史の忘却の彼方へと戻ってしまうのかと考えたとき、ここにも時間の流れを辛さを身に染みて感じるのである。