もうすっかり秋となり、山々では木々が黄色に紅色に色づき始め、野山ではリスや鳥たちが忙しく冬支度をする季節に、津久井湖のほとりから道志川に沿って山あいを縫うようにして進み、やがてう山中湖へと続く国道413号線を西に向かって進みました。
やがて、青野原と呼ばれる集落のあたりにでたら脇道にそれ、亀見橋へとむかう急な下り坂を下っていきます。
ここまで来ると車通りも少なく、完全に里の雰囲気でのどかな空気が流れています。
とちゅう、道のわきに畑に上っていくためにつけられた簡素な階段があるので、ここを歩いて登っていきます。
この上に、戦国時代の悲話を今に伝える小山田八佐衛門行村の墓標が、今なお残されているというのです。
むかし昔のお話です。
現在でいう町田市小山田の「小山田荘」というところで、秩父氏の傍流である小山田氏という一族が興りました。
その祖である小山田有重は小山田に小山田城を築いて住んでいましたが、もともとは平家に仕えていたものの、時が源氏の世となってからは東国へと戻って源頼朝の配下となり、鎌倉時代初期に大いに繁栄しました。
しかし、源頼朝が亡くなるや鎌倉幕府内は次第に家人同士の対立が激しくなり、建保元年に勃発した和田合戦によりとうとう没落してしまいます。
時代は流れて戦国時代、子孫は現在の山梨県都留市あたりに拠点を移し、甲斐守護の武田氏と姻戚関係を結ぶばかりか広大な領域を治めて栄え、享禄5年(1532年)には小山田越中守信有が居館を中津森から谷村に移しています。
しかし、武田信玄が亡くなり嫡男の武田勝頼の代になると、武田家は次第に統率を失って敗走を重ねるようになり、とうとう天正10年(1582年)3月、織田信長の先鋒を務めた滝川一益によって武田勝頼は追われる身となります。
ここで小山田信茂も武田家を見限って裏切りますが、代々仕えた主君を裏切った心象ははなはだ悪く、ついに小田山信茂も織田軍の残党狩りによって捕縛・斬首され、ここに小田山氏は滅亡するのです。
この時、小山田信茂の従弟と伝えられる小山田八佐衛門行村という武将がいました。
この小山田行村は永禄12年(1569年)8月、武田信玄が小田原城攻撃の出陣をしたときも酒匂川が増水していたことから、瀬踏といって危険を顧みず川に実際に入り深さや流れの速さ、底のぬかるみ具合などを検分する役を命じられます。
小山田行村は初鹿野伝右衛門と共に、この命をよく務めて進軍に功績高しとして殊勲をあげています。
常に武田信玄の御旗本にあって活躍し、武田勝頼の代には中老の功者と称される重臣の一人でもありました。
しかし、武田氏滅亡後に織田信長軍によって徹底的に展開された残党狩りからは逃れることができず、ようやく国境を逃れて道志川を渡ろうというときにここ青野原で狙撃され、その悲運な最後を遂げたのであるといいます。
これを哀れと思った里人は 小山田行村の亡骸をねんごろに葬りました。
時は天正10年4月9日とされ、戒名は「勇心良誉信士」と伝わっています。
さきほど、冒頭で紹介した小さな階段を上っていくと、河原から拾ってきたといわれている自然石に戒名を陰刻した、簡素な墓標が建てられています。
中央下寄りの円は、小山田氏の家紋である「立ち沢瀉」(たちおもだか)が刻まれていたのでしょうか。
今となってはすっかり摩滅してしまって、何が掘られていたのかまったく分かりません。
この、まったく無名にして簡素な墓標のある所からは、青野原の里を眺めることが出来ます。
負け戦のうえに敗走を重ね、逃げ惑ううちに狙撃され絶命したとされている小山田八佐衛門行村。
彼が見た最後の光景も、このようなものだったのでしょうか。
いま、この小さな墓標の前にひざまづき、手を合わせていにしへの戦国武将に思いをはせる時、小山田の国人としてありながら武田氏の家臣となり、そして主家とともに滅亡への道を歩んでいった小山田一族の無念が今に伝わってくるかのようで、ここに伝わる哀話とともに人の運命というものの無情さをひしひしと感じるのです。