横浜市港南区を南北に縦断する鎌倉街道は、その名の通り鎌倉に通じる古道であったものが次第に拡張されて現在の姿になったもので、おおまかには古道に沿っているので、いにしへの石仏や神社仏閣が周囲に多く残されているのもまた特徴である。
この日野の厄除け六地蔵もその一つで、ふつうは天道・人間道・阿修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道の仏教六道にてさまよえる亡者を極楽浄土へと導くことから、六地蔵は六体であるのが普通であるが、ここの日野の厄除け六地蔵は珍しく八体が仲良く並んでいるさまを見ることが出来るのである。
この日野の六地蔵、もとい八地蔵はもともとは六体であったが、のちに八体に増やされたのには理由がある。
まだ交通も電化製品も発達していなかった昔は、魚はぜいたく品であった。
この港南区ですら当時は山奥の寒村で、時おり魚売りが鎌倉からやってくる時以外は、魚といったら田や沼で獲れるものばかりであったろう。
また、今のようにインターネットもマスコミもなかった時代、魚売りなどの行商人は、新鮮な魚などと一緒に、街での出来事や他の村の様子などの情報も持ってくる。
楽しい話もあれば疫病やタタリにまつわる話もあって、それらは村人たちの貴重な情報源でもあったのである。
この魚売りもすっかり村人の楽しみとなって、その到着を村人たちは今日か明日かと待っていたが、そんなある日に現在の港南台駅の北側の、小坪のあたりの山奥深い寂しい道で魚売りは強盗にあったがために、わずかな金を奪われて殺されてしまったのである。
村人たちは、この魚売りの死をたいそう悲しんで、自らも貧しい中から少しずつ持ち寄っては費用を工面して魚売りが殺された小坪の地に六地蔵をたて、この魚売りの霊を慰めようとしたのだという。
当初は魚売りの慰霊のための地蔵であったが、この頃は日照り続きで田畑の作物も不作が続いていたので、いつしかこの地蔵を厄除け地蔵と呼ぶようになり、多くの人の心の支えとなっていったのである。
しかし時は流れて街の様相は大きく変化し、しだいに古いものは軽んじられる風潮になると、この六地蔵も邪魔もの扱いされるようになってきた。
迫り来る宅地化の波には抗えず、近くにあった由来も年代も異なる2体の地蔵とともに追いやられ、地蔵菩薩の悲しい流転の旅が始まったのだという。
ある時は古いお寺の跡地、その次は公園脇、そのまた次は空き地などと、6回にわたる引っ越しの末に、結局はこの魚売りゆかりの土地であるとして日野の鎌倉街道沿いの浄願寺があったところに落ち着いた。
そここそが、まさに現在の八地蔵があるところである。
いま、この八体の地蔵尊をよく見てみると8体のうちの2体だけが袈裟の衣紋が異なり、大きさや顔立ちも異なるなど、明らかに違うものであったことが分かる。
しかし、これら八体の地蔵尊は2008年に「日野お地蔵会」より寄進された屋根の下に仲良く並び、交通往来の激しい鎌倉街道を見守り続けているのである。