東海道線国府津駅よりはるかに北側に広がるのが、小田原市の沼代の里です。
このあたりは小高い山裾から指呼の間に小田原の街並みを見下ろし、さらに先には遥かなる相模灘を見渡す、絶景の素晴らしいところです。
城下町小田原は、もともと柑橘類の栽培が盛んでした。
かつて小田原北条氏の時代には梅が多く育てられ、曽我梅林などはその名残ですが、時代とともに国民の嗜好は変わっていき、それに合わせて柑橘類の栽培も盛んになったのです。
そんな沼代の山中を、海風を浴びながら原付を走らせていると一軒の小さな庵を見つけました。
扁額には「沼代地蔵堂」と書かれた簡素な作りのものですが、周囲は綺麗に掃き清められて落ち葉などもなく、里の人が気を使われているのが見て取れます。
この沼代地蔵堂について、このような山中にあるからにはそれなりの由来があると思います。
さっそくタブレットを用いて、「小田原市史」や「新編相模国風土紀稿」などを確認しましたが、この沼代地蔵堂らしき説明は見当たりませんでした。
本尊と思われるのは、石造の地蔵菩薩坐像でした。
左手には享保10年(1725年)7月24日の日付、右手には「○○地蔵尊為二世安楽」と陰刻なされています。
また、その脇には西国・坂東・秩父の百観音巡拝供養塔があり、その脇にも文字が磨滅しておりいまいち読めない卵形の供養塔、表情が全く分からなくなった上に首のところで折れたものを修復された、観音像と思われる石仏などが並んでいます。
これらは皆、昔からずっとここにあったものでしょうか。
それとも、時代の流れに乗って、どこからか集められてきたのでしょうか。
この地蔵堂の前には、もはや何のために建てられたかすらわからない石塔も並んでいました。
正直、ここまで分からぬ分からぬでは、記事としてはまったく体をなしていないは重々承知の上ですし、これではお叱りを受けることもあるかと思われます。
しかし、幹線道路を原付で飛ばしていた時に、なんとなく気になってわき道にそれてみたら、その行き着く先にこの地蔵尊たちがいらっしゃったのです。
その真意は分かりませんが、この地蔵尊とその周囲の石仏が、わざわざここにみうけんを呼び寄せたようにも思えました。
きっと、何か伝えたいことでもあったのかもしれません。
どうしても気になり、こうして備忘録も兼ねて記事とさせて戴きました。