海老名市の中心からは遠く離れた杉久保の里は、現在では住宅が立ち並ぶ住宅街であり、かつてどのような光景が広がっていたのか想像すらかなわぬ変貌ぶりである。
そのバス停に並ぶ一角に、時の流れを止めてしまったかのようにひっそりと建てられた地蔵堂が地域の方々から大切に守られているのを目にすることができる。
これはその名を「椿地蔵」といい、近くにある浄土宗の古刹である久光山 善教寺の末寺となっており、その入口には真新しい「史跡 玉椿地蔵」の石碑があるが、脇には何故か首を落とされた地蔵尊が並べられ、この世の無常を全身で代弁しているかのようである。
また、この地蔵堂の脇には小さな椿の木が植えられており、これこそが聞くも悲しき椿地蔵の伝説を今に伝えているのである。
時は江戸時代初期、元禄といわれたころである。
今では廃寺となってしまったが、この近くには千躰寺という寺があった。
その千躰寺の門前に、旅装いの親子連れが通りかかったが、その娘は病気がちでもはや歩く事もかなわず、そばの大松の根本でたおれてしまった。
わが娘を心配する母親は大いに嘆き、その話を伝え聞いた里人たちが駆けつけては出来る限りの手を尽くしたのだが、その甲斐もなく娘は帰らぬ人となってしまったのである。
母親は江戸の武家屋敷に2人だけで暮らしていたと言うのみで、身の上については多くは語らなかったものの、そのたぐいまれなる高雅さと気品は誰もが認めるところであったという。
この母親は娘の死を大いに嘆き悲しんだ。
かつて江戸で公儀の勤めのをしていた際に、知遇を受けた将軍家の侍医であった半井驢庵を頼ってここまで来たが、その道のりは病の身にはいささか長かったようである。
里人はこの母と娘を哀れに思い、亡骸を千躰寺へねんごろに葬ったが、そのうら若き可憐な乙女が歩んできた苦難の道を思い起こすたびに里人の情をさそい、墓前に訪れ献花し香を手向ける人が途切れる事はなかったのだという。
そのうち、誰かが墓前に手向けて土に挿した椿の枝から根が出て、この地に生きかえり成木したのが現在の椿の木なのだという。
この椿は不思議なもので、蕾は付けても花を咲かせることなく全て落ちてしまう。
これが、わずかに紅をつけたままはかなく散っていった娘の記憶に重なり、これはきっと娘の霊魂が椿に宿ったものであるとして、多くの村人から信仰を受けてきたのである。
いま、その椿の脇にたたずむ地蔵尊の石仏はそのお顔こそ崩れてはっきりとは読み取れず、若くして散った娘の苦難と、旅のすがらに娘を失った悲運の母親の嘆きが伝わってくるようで、ここにも世の中に生きる事の無常がそくそくと思いだされてくるのである。