座間市の芹沢公園というところがあります。
昔の地図を見ると、どこまでも続く丘陵地帯の原野の隙間隙間に家が立ち並ぶばかりのところで、現代ではこれといって特徴はないものの、随分と前から人が住んでいた古い町のようです。
うっそうと茂る林の中を縫うようにして切り開かれた細い坂道は、昔の名残を今にも良くとどめていると思います。
この辺りには随分と昔から人が住み続けていたのでしょう。
芹沢公園の南側にはいくつか里墓の地がありますが、江戸期の墓石も多く残されています。
その墓石たちの戒名を一つ一つ見ていくと、「童子」「童女」といった、一眼で子供のものと分かる墓石が実に多いのが目につきます。
これはこの地区だけではなく、神奈川県のありとあらゆる所で見られる現象ですが、昔はそれだけ生きるのが大変だったということを物語っています。
さて、そんな里墓のひとつ、K家の墓地の片隅に真新しい祠というか、地蔵堂があります。
一見すればどこにでもありそうな地蔵堂ですが、このお地蔵様は昔の人々の暮らしを考える上で色々と考えさせてくれる、実に稀有な地蔵堂なのです。
今回はあえて地図は載せません。
この小さな地蔵堂は、小さいながらも比較的新しく、綺麗に掃除されて大切にされているようです。
舟形の光背は、全身から放たれる光が世界の隅々までを照らすさまをあらわし、またそのお顔はより明るく輝くために丸い光背をもち、その両手にはしっかりと宝珠をお持ちになっています。
地蔵菩薩というのは六道(天上・人間・修羅・餓鬼・畜生・地獄)でさまよえる全ての亡者をあまねく見つけ出し、その手を引いて極楽浄土へと連れていくという民間信仰の果てに、死者の供養のために数多く作られ、その風習は今なお路傍の交通安全地蔵などで見ることができます。
ただ、このお地蔵様の場合は少々事情が違うようで、その光背にはしっかりと「一ツ目小僧地蔵菩薩」と陰刻されているのが分かります。
また、このお地蔵様の裏手には何本もの卒塔婆が奉納されていますが、この卒塔婆にも、はっきりと「南無一ツ目地蔵菩薩 御尊霊」と記されています。
一つ目小僧というと、まんが日本昔ばなしや絵本の話、漫画の「ゲゲゲの鬼太郎」などに出てくるものを思い出しますが、ここの「一ツ目小僧」は実在の人物だったということなのです。
このお地蔵様には謂れがあり、時代はまだそう遠くない昭和7年まで遡ります。
昭和7年、この地域の里人が墓地を作ろうと大きな穴を掘っていた時のことです。
現代では遺体は火葬にして小さな骨壷に納め、墓石の下の石室に収めるのが一般的ですが、この頃はまだまだ土葬の風習があり、墓地を作る場所も墓地やお寺にももちろんあったが、自宅の敷地内という事も多くあった時代です。
この時、一体の人骨が出てきました。
自分だって土葬しようとしていたのですから、骨が出てくる自体は別に驚くべきことでもなかったのですが、なんとこの人骨は目が一つしかなかったというのです。
通常、みなさんもご存知のように人間の目は2つあり、それに合わせて頭蓋骨にも眼窩が2つあるのが通常ですが、この時に出土した人骨には眼窩は真ん中に1つあるのみだったそうです。
下の画像はちょっと検索したら出てきたもので、合成画像か本物か分かりませんが、ちょうどこういう感じだったのでしょう。
当然、村中は大騒ぎになりました。
噂が噂をよんで多くの見物人が押しかけ、警察官まで大勢出動したといいます。
また、実際に警察官による確認も行われたそうですが、本物の人骨であるという鑑定結果が出たものの、それがどこの誰か、であるかまでは分からなかったそうです。
その後、この人骨は流転の旅を続けます。
違うところへと埋めなおされましたが、やはり歓迎はされなかったのでしょうか。
無理もありません。誰か知らない人の骨だっていうだけでも嫌なのに、一つ目の人骨とあっては・・・
結果、何度も何度も改葬さたあげく、やがて骨は四散し、その行方は分からなくなってしまったそうです。
そして、この土地とお墓の持ち主の方が、一つ目小僧さんの菩提を弔うために、最初に骨が出てきたところにお地蔵様をたて、今でもこうしてねんごろに供養されているということです。
実に立派なことだと思います。
ここからはみうけんの個人的な考えですが、妖怪というもののいくつかは実は身近にいた存在だったのではないかと思います。
この一つ目小僧というのも、実は目が一つだけある人間というのはごく稀に生まれることがあるそうで、医学的にも単眼症という名で呼ばれています。
現代は分娩前に胎児の状態がエコーなどで詳細に分かりますし、世界では単眼のような障害をもって産まれてきても親の意向でそのまま水子にされてしまう場合が多く、また仮に育てたとしても体の他の部分にも障害を持っている場合が多く、生き延びることはなかなか難しいのだそうです。
それでも、現代のように医学が発達していない時代には単眼症とは知らずにそのまま産んでしまい、育てる場合もあったようです。
現代よりもさらに障害者差別が激しかった昔のことですから、そのように分かりやすい障害をおった者の人生とはどのようなものだったのでしょう。
昭和の頃まで、「親の因果が子に報い」という言葉がありました。
民間信仰で、親が良いことをしても悪いことをしても、その結果は子供に還ってくると考えられ、これが現代でも「子供の障害は親の責任」と潜在的に意識する差別思想の源流ともなっていると思います。
むかしは、障害をもった子供が産まれた場合は捨てられてしまうことがほとんどですが、親の罪深さを洗い流すために、子供は寺に預けられることもあったそうです。
結果、寺で小僧さんとして生きていくことになりますが、それが現代に伝わる「一つ目小僧」の原型になったのではないかと、個人的に考えます。
障害者に対する差別意識というものは、今とは比べ物にならないくらいひどかった時代です。
みうけんの記憶にある昭和のころであっても、目が見えづらい人、耳が聞こえづらい人、上手にしゃべれない人、または手足が不自由な人、それぞれに差別用語がありました。
また、その差別用語を使うのが日常でもありました。
現代ではテレビなどで放送禁止用語として使われなくなったりしても、時代は流れて新しい差別用語を産んでいることもあります。
それよりも数百年の昔、江戸時代にでも遡ってみれば、この単眼症で生まれた人はどのような生涯を送ったのでしょう。
その艱難辛苦の人生は、想像に絶するものがあると思います。
ここに葬られた人がどんな人で、いつ頃、どんな人生を過ごしてきたのかは全く記録がないので分かりません。
しかし、実際に一つしか目がない頭蓋骨が発見されているということですから、妖怪ではなく実在の人物だったのは確かなようです。
最近、相模原などでよく聞く妖怪に「アズキとぎばばあ」というものがあります。
これも、よくよく考えてみればお婆さんが川でアズキか米を洗っていただけかもしれません。
また、よくある「旅人が山の中の一軒家に泊まったら、老婆が包丁を研いでいたので逃げてきた」という山姥伝説がありますが、夜に包丁を研いだだけで鬼扱いとは、考えてみればひどい話です。
また、大和市には実在の女性が山姥にされたあげくに殺されてしまったという悲しい逸話も残されています。
もう十数年も昔のことですが、みうけんの友人が子供を産みました。
とても可愛い女の子でしたが、左手の指が6本あったのです。
このような症例は多指症といって、やはり稀にあるそうで、歴史的に著名な人物では豊臣秀吉が有名ですが、その子の場合はしばらくして切り落としてしまったので今では全く普通の子と区別がつかず、本人もその事は覚えていません。
このような先天的な障害というのは、実はなかなか身近なものなのかも知れません。
この一つ目小僧のような話は、医学的漫画の草分けともされる手塚治虫先生の漫画「ブラック・ジャック」の「魔女裁判」という話に出てきます。
単眼症で生まれた子供のために迫害されて悪魔扱いされた母子が隠れて住む山中に迷い込んだブラックジャックが、その子の目を治療するというお話で、差別的な表現があるとして初期の単行本にしか収録されていません。
ブラックジャックはあくまでもマンガですが、このような事例が実際にあったのが、この一つ目小僧さんだったのではないでしょうか。
このように、かつては障害というものは徹底的に差別され、身体のみならず精神的に障害を負ったりしても、その結果が妖怪や山姥扱いされてしまった、という事例は確かにあったようです。
いまではとても考えられない事ではありますが、昔の人たちの平和ばかりではなかった暮らしぶりが、このようにして時折思い出されてくるのも歴史と民話めぐりの醍醐味でもあると思うのです。