東海道を西に進んで川勾神社入り口の交差点を折れ、密厳院のあたりをさらに西側に折れ、中村川に沿うようにして走る細い道を原付で進んでいく。
このあたりになると、自動車では通ることが少々難儀するような、古く細い道がずっと続いているところである。
その細い道のわき、コンクリートブロックで立派に仕切られながらも、詣でる人も少なくなったのか落ち葉が積もり、雑草生い茂る小さな稲荷社の境内がある。
これは通称「善波稲荷」といって、特に由来板も説明看板もないながらも、かつてここに生きた名もなき人々との伝説を今に伝えている稲荷社なのである。
むかし、この近くに峯吉という、大変な働き者で近所でも評判高かった男が住んでいた。
野良仕事が忙しい季節になると、ただでさえ朝の早い百姓たちが起き出す頃にはすでに一仕事を終えて汗を拭きつつ、朝飯に帰って来るという日常であった。
この峯吉を見ていると、自然と周囲の百姓たちにも仕事に熱が入るようになり、皆が仕事に精を出すものだから、この村は周囲に比べるといくぶんか豊かな村であった。
ある日、峯吉がおよしという妻を娶ることになった。
まだ若いのに信心深く、気だても優しく働き者での二人暮らしは、まるで極楽浄土にいるかのような幸せな暮らしぶりであったという。
しかし、幸せは永くは続かなかった。
一生懸命働いて、とうとう念願の水車小屋を中村川のほとりに持った二人は、その水車小屋でも日夜問わず、米をついたり粉をひいたりして働いたが、間もなく小屋から火が出て、近くにあった水車小屋2軒も跡かたなく焼き尽くしてしまったのである。
元来、信心深くまじめだったおよしは、この度の火災はすべて自らの不始末であると自責の念に思い悩み、家で祀っていた稲荷神をただひたすらに拝んでは、救いを求めたのである。
また、常日頃からこの夫婦の憎むべきところがない誠実な人柄と、一途な信仰心の篤さをよく知っていた村人たちは、自分たちの水車小屋を失ったというのにも関わらず自責の念に苛まれるおよしにいたく同情し、誰一人として峯吉やおよしを責めようとする者はいなかったという。
それから数日たって、およしは突然気が違ってしまったかのように人格が変わり、村にふりかかる災厄や喜びごとなどをことごとく予言するようになった。
最初はおよしはついに気が狂ったか、と憐れんでいた村人たちであったが、その予言が実によく当たることが分かると、村人たちから他の村へと「およしにはお稲荷様が乗り移っている」という噂が広がり、連日多くの人が押しかけては占いを求めるようになっていったのである。
これに対しておよしは、これは稲荷が与えた罪滅ぼしであるとして一人一人に誠実に対応したために、あまりの忙しさに食事を食べる時間も寝る時間もなくなり、それがかえっておよしの寿命を縮め、およしは53歳でこの世を去ったのであるという。
その後、この稲荷大明神の小さな祠は善波稲荷と呼ばれて多くの信者がつめかけ、およしの夫の峯吉は、波乱に満ちた生涯を歩んだ哀れなおよしをせめてお稲荷さんのもとに置いてやろうと、善波稲荷社の境内に小さな稲荷社の祀を建てて守り稲荷としたのだという。
しかし、それから幾星霜の時が流れていくと次第におよしの噂は忘れられていき、善波稲荷に訪れる人も減って、今は静寂の中に包まれているのである。
いま、晩冬の薄寒い日に、落ち葉積もる善波稲荷の境内に立ち静かに手を合わせるとき、かつてこの辺りに住んだ人々の中に語り継がれてきたおよしの姿が目に浮かぶようで、この稲荷にむけ必死に祈りをささげた遠い昔の出来事が、まるで昨日のことのようににわかに思い出されてくるのである。