みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。※現在アップしている「歴史と民話とツーリング」の記事は緊急事態宣言発令前に取材したものです。

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業苦が覆う時代に光をともした 国府津の建武古碑(小田原市)

JR東海道線の国府津駅はかつて東海道線の要所であり、現在の御殿場線へと向かう旧東海道線に機関車を連結する起点駅として大いに発展したが、その役目を終えた現在としては海沿いに広がる閑静な住宅地を擁する穏やかな光景が広がる駅となっている。

 

その国府津駅から国道1号線を西進し、岡入口の交差点を右に折れて御殿場線のガード下をくぐっていくと、右手に寶金剛寺が見えてくるが、その手前の路地を入ると、小川沿いの細い坂道を登っていくことができる。


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このあたりは蛍が生息しているとされ、山々からにじみだす湧水は清流となって沢を作り出し、その周囲はうっそうとした木々が道を覆い、昼なお暗く湿気のこもったところである。

また決して車では入ってはならないような細い道でもあり、人通りもまったくないことから、実に物寂しい雰囲気をかもし出しているのである。


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その坂をずっと登っていくと、ほどなくして左に分岐する小路があり、崖にへばりつくようにして続くその道の果てには地元の人が「ミカン山」とも呼ぶところで、崖地や斜面に数多くのミカンの木やキウイの木が植えられており、また高台にもなるのでその眺めは大変よく、国府津の町の向こうには相模灘の大海原を一望できる。

 

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そのあたりにある小さな看板は、「建武古碑」は平成20年暮れにお寺の墓地に移動しました。という事を言葉少なげに伝え、かつてここに「建武古碑」なるものが在ったことをあらわしている。

 

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その周囲には、かつてここにも葬られた人がいることをあらわしているのであろうか、中世に身分の高かった者の墓標としてよく使われた五輪塔の残骸がやぶの中にころがって、今にも人知れずに落ち葉の中に埋もれていこうとしているのである。


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また、その背後には小さな手水鉢かつくばいの様なものを従えた、建武古碑の台座だけが残されて、今となっては花を生ける人も途絶え、荒れるのみにまかされた花立がよりいっそうのうら寂しさを演出しているかのようである。


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その眼前には急峻な崖が広がり、その目もくらむような眼下には延々とミカン畑が連なって、その奥の山々からは鳥のさえずりが聞こえて、この風景だけはずっと昔から変わらずにこうしてあったのだろう。

 

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再び坂を下り、人家のある里に降りてゆく。

路地の入り口で右に折れて少し行けば寳金剛寺が見えてくるのである。


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金剛寺は國府津山医王院と号し、平安時代の天長6年(829年)に、弘法大師十大弟子の一人である杲隣大徳(ごうりんだいとく)によって創建されたとされる古刹であり、京都の東寺(教王護国寺)を本山にいただく東寺真言宗の寺である。

 

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御本尊様の地蔵菩薩像は神奈川県の指定重要文化財にも指定されており、国重要文化財大日如来坐像、また神奈川県の重要文化財である不動明王像などを残し、小田原北条氏や徳川家からの信仰も篤くした名刹中の名刹なのである。

 

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境内には苔むした五輪塔が並んでいるが、五輪塔じたいは中世、とりわけ江戸期の前に多く作られた墓標で、主に身分の高い者に用いられた。

鎌倉や三浦半島などにも多く残されているが、だいたいの五輪塔は先程の建武古碑跡にあったように四散してしまっているものが多いなか、このようにして原型のままに大切に保管されているのは珍しいといえる。


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その寳金剛寺の裏山を登って行けば、広く開けた一角があり、建武古碑はその奥にひっそりと祀られているのを見る事ができるが、訪れる人もあまりないのであろうか、その道には先人の足跡もなくさびしい限りである。

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ようやく、国府津の深遠なる歴史を表す「国府津建武古碑」との対面である。

建武古碑というのは、建武5年に建立された陰刻が残るからそのように呼ばれているようである。

建武5年というのは西暦にすれば1338年で、南北朝時代が終わり室町時代が始まってすぐの頃であり、願主の沙弥法明という者については何の伝承もないので詳しくは分かっていない。


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このような板碑は鎌倉時代以降、武蔵の国を中心として広く普及しており、秩父で産する板状の天然石で造るのが典型とされていたが、のちには地方で産出する、その地方独特の石材が多く使われるようになり、形や掘り方、意匠など規格を大きく外れた様々な石碑が造立されるようになったのだという。

この「建武古碑」はその好例であり、相模型板碑と呼ばれて入手に手ごろな根府川の自然石を用い、素材の持つ特色を大いに生かした地方色豊かなものとされているのである。

 

石碑の中央にはに、上から阿弥陀(キリーク)、観音(サ)、勢至(サク)の三尊をあらわす梵字が刻まれており、無量光の慈悲をもたらす阿弥陀仏、念ずれば苦境から救ってくれる観音菩薩、迷いと戦いの世界の苦しみから知恵を持って亡者を救ってくれる勢至菩薩阿弥陀三尊と同じ配列である。


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建立の目的は、主として死者の往生と信仰によって生ずる功徳を本願としたもので、当時の浄土教信仰を如実に示しているものであろう。

 

この建武古碑が造られた時代はまさに戦乱の世であった。

全国で戦がはびこり、天下は大いに乱れて領民は凶作や飢え、野武士と呼ばれる盗賊や領主からの重税に苦しんだ時代である。

医療も未熟で、泥水をすすっては流行り病が出たといって神仏にすがった時代である。

生き抜くことも大変だったこの時代、少しでも神仏の加護を得て自らの幸福を願ったのは当然のことであったろう。

 

いま、この建武古碑の建っていた丘の上に立ち、遠くに広がる平和な国府津の町と相模灘の海を眺めるとき、天下泰平の世に生まれたことの幸せとありがたみをひしひしと感じ、いまあまねくもたらされている大いなる阿弥陀三尊の御加護に、思わず手を合わせずにおれないのである。

 

 

 

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