厚木市を流れる玉川を遡り、分流から日向側へと遡っていくと、その川沿いの道は日向薬師の参道となっています。
そのとちゅう、のどかな農村地帯の田畑の中に、石垣の上に築かれた神社を見つける事ができます。
これは現在は日向神社(ひなたじんじゃ)と呼ばれていますが、もともとは白髯神社と呼ばれていた神社です。
この神社は、日向薬師を開いた高僧、行基に協力を惜しまなかったと誉れの高い渡来人、高麗王若光(こまおうじゃっこう)を讃えて創建されたものと言われています。
この神社は歴史もふるく、江戸時代後期に編纂された一大地域史料の「新編相模国風土紀稿」のうち、「大住郡・糟屋庄・日向村」の項には「熊野白鬚合社」と紹介され、それによれば
村の鎮守なり。神体共に木像。長一尺四寸八分。日向薬師を本地仏とせり。霊亀二年二月。行基日向山に登り。薬師像を彫刻せんとする時。此に神出現して。基に霊木を与ふ。依て爰に祀れる由。薬師縁起に見えたり。其文薬師堂條に出す。例祭八月四日。両社領四石の御朱印は。天正十九年十一月賜へり。薬師堂別当。宝城坊持。
末社 稲荷 秋葉。
鐘楼 宝暦四年の鋳鐘を掛。
注:爰=ここ。條=文書
と伝えています。
この中に出てくる「霊亀三年」とは、西暦717年の奈良時代初頭にあたります。
これより50年ほど前、朝鮮半島では新羅・百済・高句麗による三国時代のうち、高句麗が滅ぼされた頃でした。
祖国を追われる身となった高句麗の王族たちのいくらかは日本に渡来してきたわけですが、その名残は神奈川県にも残されています。
現在でいう大磯町に高麗というところがありますが、ここに住み着いたのが「高麗王若光(こまのこにきしじゃっこう)」という、高句麗王族と言われていたひとでした。
ただ、その記述は「日本書紀」などにあるものの、その出自や生涯など、詳しいことは多くは分かっていない人物でもあります。
ここ白髯神社はも、古くは高麗王若光を祀っているとされています。
高句麗王朝が滅亡し、はるばる日本へと亡命してきた若光は、朝廷より東国の整備を命ぜられました。
長い旅の末に大磯に住み着きましたが、しばらくしてから伊勢原の日向で暮らし、その後は現在の埼玉県日高市あたりに移り住んだと言われています。
その日高市も、もとは高麗郡と呼ばれていました。
この若光は、大変美しい白髯(ひげ)の持ち主で、現在の神社名もここから来ています。
日向薬師が創建されるさい、高僧行基が薬師如来の像を彫ろうとすると、突如として熊野権現と白髯大明神が現れて、行基に霊木を与えた、という伝説が残されているのは上記の「新編相模国風土紀稿」にも紹介されています。
これによって白髯神社はその名を高めていましたが、江戸末期に近くの熊野神社を合祀し、
昭和8年には白髯神社から日向神社に改称されています。
しかし、扁額は旧来の白髯神社のままにされており、かつて白髯神社と呼ばれていた頃を彷彿とさせています。
最近まではふるびた茅葺屋根が特徴でしたが、平成の終わり頃、いつの間にか改装されて今の姿となりました。
今ではひっそりと人気のない神社ですが、かつては鳥居脇の松の古木に火球を下げて回し、その火の粉を浴びて無病息災を願う祭りが行われ、縁日は大変賑わったということです。
今、苔むした石垣の上にひっそりと立つ神社の境内で、ひとりそっと本殿に手を合わせ、かつてここに生きた高句麗の王族若光と、高僧行基の交流を思い起こし、悠久の歴史に想いを馳せたのです。
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