鎌倉の中心部から二階堂や十二所を通り、朝比奈峠をこえて金沢区に至る道が鎌倉街道です。
今でも鎌倉市では主要な幹線道路の一つですが、ここは昔から天然の良港とされた金沢と鎌倉を結ぶ要衝でもありました。
この道のランドマークとなるY字路の「岐れ路」交差点から金沢方面に少しいくと「大御堂橋」という交差点があり、そこから入ったところに大御堂橋がかかっています。
この大御堂というのは、かつて文覚上人という高僧が庵を構えて住まわれたところとされています。
文覚上人は詳しい生没年は分かってはいないものの、平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍したとされるひとで、もともとは遠藤盛遠(もりとお)という武将でした。
もともとは鳥羽天皇の皇女である統子内親王に仕えていましたが、18歳のころに誤って従兄弟である源渡(みなもとのわたる・渡辺渡とも)の妻である袈裟御前を殺してしまったことで出家したと「源平盛衰記」に記されています。
その後は熊野山などの難所で荒行を続けて修行し、武士としての激しい気性は保ちつつも周囲からは上人さまと呼ばれるまでの高僧となったとされています。
京都に帰ったさいに神護寺が荒れ果てている事に心を痛めた文覚上人は、これを修繕しようと強引に寄付を募ったあげく、後白河法皇にまでも無理に布施を求めたことで不敬の罪に問われて伊豆に流されたりもしています。
その頃、伊豆には源頼朝も流されており、文覚上人は源頼朝に向かって
「父である義朝が殺され、あなたもまたここに流され、報われぬ日々を送っておられる。これ全て平清盛によるものなり」と説き、出兵を強く促します。
初めのうちは首を縦に振らなかった頼朝ですが、文覚上人があまりに熱心に平家打倒を説くことに心を動かされ、ついに平家打倒の旗を揚げたのです。
これに対し文覚上人は「兵を起こすには大義名分がなくてはならぬ。これより都にのぼり、法皇の印をいただいて来よう」と言い残し、平清盛が都を移していた兵庫県の福原京へすすみ、顔馴染みであった公家の藤原光能にとりなしてもらって院宣を受け、それを頼朝に渡したとされています。
これにより源頼朝は石橋山の戦いに臨むことができたとされています。
やがて鎌倉幕府が開かれると文覚上人はこの地に庵を構え、源頼朝を脅かしていた奥州の豪族である藤原秀衡を祈り殺す祈祷などを行ったとされています。
治承5年(1181年)4月、源頼朝の願いによって弁財天を江の島に勧進した文覚上人は、21日にわたる断食修行を行い、これに法力を加えたとされています。
その後、念願であった東寺の再興をするべく強引に布施を集めることを始めたものの、また謀反の疑いをかけられて対馬に流される道中で亡くなったとされていますが、実際のところ最期の様子について詳しいことは分かっていないようです。
いま、この文覚上人の住まわれていた地に立つと、すぐ目の前には小さきながらも悠久の流れをたたえる滑川が流れています。
また、石碑の周りにはすっかりと新しい家々が立ち並び、もはや往時の面影を残すものは幾らも残っていません。
しかし、かつてここには確かに鎌倉幕府の要人として影響力を保った高僧の庵があり、夜な夜な香を焚き経を詠みながら政敵を倒す祈祷を続けていた姿を思い起こすとき、ここにも止まることのない歴史の流れるさまをそくそくと感じるのです。
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