鎌倉の中心部から金沢区に至る金沢街道は、今も昔も鎌倉の主要幹線道路であり、日々多くの人や車が通行するところです。
この道は鎌倉幕府が開かれる1192年よりもはるか前から使われており、鎌倉最古の寺とされる杉本寺に至っては鎌倉幕府が開かれる450年もむかしの天平6年(734年)の開基であることから、その頃にはすでにここに人通りがあった事が想像できます。
さて、この金沢街道を進んでいくと鎌倉女子大学の二階堂学舎から少しだけ鶴岡八幡宮によったところに、「歌の橋」という小さな橋が見えてきます。
街道ぞいながら、昼間でも木々がうっそうと生い茂り、どこか物悲しさを感じさせる橋でもあると思います。
この歌の橋は小さな橋ながらも、鎌倉十橋の一つに数えられている橋です。
建暦3年(1213年)のこと、2代将軍であった源頼家に源栄実(みなもとのえいじつ)という子がおりました。
この頃、鎌倉幕府で権勢を誇っていた北条氏に反感を持つ信濃国の御家人であった泉親衡(いずみ・ちかひら)によって大将軍として擁立させられ、北条義時誅殺の陰謀計画が始まります。
しかし、この企てはあえなく露見し、結局は源栄実は襲撃を受けて14歳の若さにして自害してしまいました。
(このあたりは諸説ありますので細かい事は多めに見てくださいまし)
この謀反に加担したとされて捕らえられた武士のひとりに、渋川兼守(しぶかわかねもり)という人がおりました。
渋川兼守はただちに無実の罪を晴らそうとする心を寄せた和歌を十首したため、荏柄天神に奉納したところ、時の将軍であった源実朝がこれを見て多いに心を打たれ、渋川兼守の罪を許したとされています。
晴れて解放された渋川兼守が荏柄天神へのお礼として新しい橋を寄進したのが、この歌の橋であると言い伝えられています。
今なおこのあたりは鬱蒼とした木々が生い茂り、その下には昔の面影を色濃く残す小川が今なお流れ続けています。
まるで、ここだけが鎌倉時代のなつかしき頃に戻ったかのようで、その静寂の中にしばしたたずんでしまいました。
いま、多くの車が疾走していく金沢街道を背にして歌の橋から小川の流れを眺めているとき、上方から流れてくる木々の梢の触れ合う音とトンビの鳴き声がよりいっそうの郷愁をさそい、かつて死を前にしながら赤心のまま和歌をよんだ武者の後ろ姿が目に浮かぶようで、ここにもかつての思い出がそくそくとよみがえってくるのです。
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