鎌倉の鶴岡八幡宮から杉本や十二所、朝比奈峠を越えて金沢区に向かう道は、かつては天然の良港である金沢と鎌倉を結ぶ交通の大動脈で、今でも「金沢街道」と呼ばれて地域の重要な幹線道路となっています。
その金沢街道を進んでいくと荏柄天神社のあたりに大きなY字路が見えてきて、交差点の名前も「岐れ路」という名前になっています。
この「岐れ路」からすぐのところ、かろうじて橋の欄干が残っている一角があります。
よくよく見ていないと気付かずに通り過ぎてしまうような橋で、この道を恐らく100回以上は通っているであろうみうけんですら、地図を片手に探してしまったほどです。
この橋は「関所橋」と呼ばれ、かつては「魔の淵」と呼ばれて魔物が住んでいたという小川にかけられています。
関というのは関所のことを指し、神奈川県で有名な関所といえば箱根の関所が有名ですが、実際は治安維持や通行料の徴収のために多く作られました。
そのため、このあたりは「関場」という地名も残されています。
この橋の近くには、確かにこの地に関所があったことを示す案内碑も立てられています。
戦国時代に小田原を拠点とし、南関東一帯に勢力を誇った北条氏の第5代目の当主である北条氏直が関所をここに作り、鎌倉へ物を運ぶ人を検査して、必要に応じて通行量を徴取したところとされています。
ここで集められた通行量はかなりの金額になるでしょう。このお金で、近くの在柄天神社の修繕をしたり、維持費に充てたと言われています。
当時の接書が現在も荏柄天神社の書き物に残っており、「徒歩は五文、背負人は十文、里人のゆききおよび僧侶は無料」などと記されているようです。
今では忘れ去られてしまったかのような小さな橋で、おそらく多くの車はここに橋があることすら気がつかないでしょう。
案内碑の裏にはひっそりと青面金剛の石塔が残されています。
庚申塔の主尊として有名な青面金剛は病魔を退散させるというご利益もあることから古くから村の入り口などに祀られてきた経緯をもっており、今も街ゆく人を静かに見守っているかのようです。
いま、この小さな小川を背にして関所橋から十二所をこえたはるか彼方の金沢区の方角を望むとき、かつてここを歩いた多くの人たちや、大八車に荷物を乗せた牛馬が列をなしていたでしょう。
もしかしたら、彼らを目当てにした物売りなども集まって、大変賑やかなところだったかもしれません。
いま、かつての通行人なたちが関の前に立ち、列をなしては去っていく光景が目に浮かぶようで、ここにも時の流れの儚さを感じるのです。
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