横浜市南部を走る環状4号線の栄区のあたりに公田交差点という交差点があります。
地元では知らない人がいない、というくらいにメインの交差点なのですが、その南の「上耕地橋」の北側にはかつて天神様の社があったそうです。
現在は住宅街となりその面影はありませんが、かつて桂村のなかでも社の東がわに住む人たちと、「馬場根(または番馬根)」というところの里人が氏子になっていたそうです。
この「馬場根」という地名の由来は鎌倉時代にまでさかのぼります。
かつて、この近辺では鎌倉武士達が兵馬の訓練をする馬場があったという事です。
そのため、ここにあった桂の天神様も鎌倉の荏柄天神社の御分霊ではないかと言われています。
この馬場根に住む人々の間には、昭和の初めまでは決して鶏を飼ってはならないという掟があったそうです。
というのも、これは桂の天神様のタタリを恐れての事でした。
天神様というのは平安時代に実在した菅原道真がご祭神となっています。
菅原道真は平安時代に醍醐天皇の信任を受けるも、実質的な支配者であった藤原一族と対立したことが仇となり、延喜元年(901年)には京都から九州の太宰府へと流され、延喜3年にその地で亡くなったとされています。
この桂地区に伝わる伝説では、菅原道真は流罪のために捕われようという朝、一番鶏の声を合図に屋敷を抜け出して藤原氏の手から逃れる手はずでした。
しかし、何という事かその朝に限って、鶏は鳴かなかったのです。
その結果、逃げ遅れた菅原道真はたちまちのうちに捕らえられ、太宰府では死ぬまで鶏を憎み、藤原氏を恨み続けて死んだといわれています。
しばらくして、京の都では熱病が流行り始めました。
しかし、その熱病は不思議と藤原氏の周囲にばかり流行り、藤原氏に関わりがあるものばかりが次々と怪死するという不思議なもので、さらに鶏を飼っている家には決まって落雷して火事騒ぎを出すという事が相次いだのだと言い伝えられました。
これは間違いなく菅原道真のタタリであろうと恐れた里人たちは、なんとか菅原道真の怨念をいやそうと京都の北野や筑紫国にこぞって天満宮を建てたのです。
やがて学問の神としても霊験あらたかであるという話が広がり、天神様は全国各地へ建てられることになったのです。
しかし、時代が下ると桂の天神様は明治時代にあった廃仏棄釈運動や一村一社令の影響で公田神明社へ合祀されてしまいました。
もともとは上耕地橋は天神橋という名前でしたが、環状4号線にかかる橋が天神橋と呼ばれるようになると上耕地橋と名を改めましたが、この上耕地橋が本来の天神橋であったという事です。
そして、いつしかこの昔話も徐々に忘れられていき、馬場根で鶏を飼わないという風習も忘れられていき、ついに桂のあたりは鶏を飼うような家もなくなり、現代的な住宅街へと変貌したのです。
いま、天神様があったとされる鼬川(いたちがわ)の周辺では、水鳥たちが昔と変わらぬ様相で川面を泳ぎ、小魚を追い求める光景が広がっています。
かつて、この川べりで里人たちの暮らしと水鳥たちの営みを見続けてきた天神様は、鎮座されている場所こそ変わったものの、今も変わることなく栄区の人たちの暮らしを見守り続けているのです。
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