三浦半島の東側、ちょうど三崎口駅の右側の海岸沿いは海を見渡す丘の連なる、風光明媚で静かな菊名というところであるが、この中に木々に埋もれるようにしてあるのが鎌倉時代創建とされる菊名の白山神社であり、その主なご祭神は伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)、伊邪那美尊(いざなみのみこと)である。
(漢字表記は神社公式の由来書による)
もともとこの神社は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の重臣であった三浦一族の配下の武将であった菊菜左衛門重氏によって、今の石川県である加賀の国一宮であった白山比咩神社を勧請したものだとされており、もともとはここよりほど近い菊菜の山林の中に鎮座されていたものが、鎌倉幕府と三浦一族が滅亡したことから荒廃にまかせる一方であったという。
時は流れて天下泰平の江戸の世となり、世の中での暮らしにも若干の余裕が見え始めたころの貞享元年(1684年)、第五代将軍綱吉公の頃に村民が一丸となって現在の地に移転して祀りなおし、今なお家内安全・夫婦円満・海上安全などにご利益あらたかとして、里人たちの信仰を集めているのだという。
この本殿の裏手には短い石段があり、その上にはぽっかりと口をあける横穴が見られるが、これこそが切妻造妻入形横穴古墳と呼ばれるもので、かつてはこの神社の本体出会った可能性もにおわせているのである。
これは、もともとは奈良時代に造られたとされる横穴墓である。
天井部が切妻造風に仕上げられており、それだけでも趣向を凝らしたものであるのが分かるが、壁面には一面に朱を施した痕跡が残っているという。
朱はかつて神聖な色とされて魔を寄せ付けない力があるとされ、今でもお地蔵様のよだれかけや神社の鳥居の色などとして見受けられるが、横穴墓の玄室一面に朱を施すというのは当時としては実に贅沢な話で、被葬者の権威の高さがうかがえるのである。
なお、この横穴の近くには数多くのカニが棲息しており、足元をチョロチョロと歩き回るので踏みつぶしたりせぬように注意したいものである。
また、この横穴墓は市指定史跡として昭和44年(1969年)に指定されており、それ以降は大切に守られているが、それ以前もこの横穴はご神体として、または祠としての役割ももっていたのであろうかと想像できるのである。
他にも穴がありますよ、見てみますか? ということで、さる民家の裏方の穴も見せていただいた。
こちらは横穴墓というよりもヤグラのような作りである。
この周囲の丘陵はかつて、三浦一族が北条氏に攻められた際に攻防戦を戦った出城の跡でもあるとされ、その時にも城郭の蔵などに利用された可能性もある。
この穴がある位置は川の流れと雄大な海を臨み、南向きで日差しは温かく、実に過ごしやすいところであり、海産物も豊富にとれる楽園のようなところである。
いま、この横穴墓を降りて目の前の海岸に立つとき、見ている光景がまるで大昔の海のように思えてきて、はるか昔に生きた、今となっては名前すら分からない豪族と民たちの、海と生きてきた営みが見えてくるようである。