神奈川県と静岡県の県境の近く、萬年山 城願寺という曹洞宗の寺院があります。
このお寺の歴史は古く、鎌倉幕府を創設した源頼朝を助けた土肥一族の菩提寺とされています。
元々は荒れ果てていた密教の道場でしたが、土肥実平が持仏堂として再興し、さらに臨済宗として再興を果たします。
さらに15世紀には曹洞宗の寺院として重興開山となり、正式に城願寺と改名して現在に至ったのです。
この城願寺の境内には、 謡曲「七騎落」(しちきおち)に登場してきた7人の武将たちを祀った、七騎堂という小さなお堂が残されています。
その扉は固く施錠されていますが、堂内には七騎の木像が収められているということです。
この謡曲「七騎落」というのは、鎌倉時代における武士社会の忠節と恩愛の境目に苦悶した親子の情を描いた作品として後世に高い評価を得ています。
鎌倉幕府を創立した源頼朝は、石橋山での大庭景親ら平氏方との戦において惨敗し、落ち延びていきました。
その際、真鶴から船に乗り房総半島へと向かう事にしましたが、いざ漕ぎ出そうとして船中を見ると、主従の人数が8人でした。
それを見た源頼朝は、祖父であった源為義が九州へと敗走した時も8人であったし、父の源義朝が近江へ敗走した時も8騎であったことを思い出したのです。
この8の数は不吉な数に違いないと、源頼朝は誰か1人を降ろすように命じます。
土肥実平は、いずれも忠義の者ばかりで選ぶことが出来ず、もっとも老いていた岡崎義実を説得しますが、一番長く使えた忠義の士であるとして結局は降ろすことが出来ませんでした。
そこで、やむを得ず我が子であった土肥遠平を下船させる事となったのです。
一行は親子の別れに涙を流しつつも、命からがら船を沖へと進めて房総に向かいました。
後ろを振り返ると、数えきれないほどの追手の旗印が陸地を埋め尽くしており、おそらく土肥遠平は助かるまいと、土肥実平は嗚咽したといいます。
その後、のちに鎌倉幕府の筆頭となる和田義盛が源頼朝の船を見つけました。
そこで、和田義盛は源頼朝はどこかと尋ねますが、まだ完全に和田義盛を信じていなかった土肥実平は和田義盛の心を試すため、主君はいないと嘘をつきました。
すると和田義盛は嘆き悲しむあまり、主君を失っては生きている意味はないと腹を切ろうとまでするので一行は大慌てでこれを止め、近くの浜辺に船を寄せて源頼朝に対面させたのです。
喜んだ和田義盛は土肥実平にむかって、実は土肥遠平は自分が助け出してきた、と父子を引き合わせました。
土肥実平は夢かとばかり喜んで父子は抱き合い、一同は酒宴を催し、土肥実平は喜びの舞を舞ったのだといいます。
この時の様子が、
ただ今某あまりの嬉しさに涙を流して候を。
さこそ若き人々のおかしとおぼしめすらんさりながら。
嬉し泣きの涙は。嬉し泣きの涙は。何か包まん唐衣。
日も夕暮れになりぬれば。月の盃とりあえず。
主従ともに喜びの。心うれしき酒宴かな。
めでたき折なれば土肥殿ひとさしおん舞い候え。
心うれしき。酒宴かな。
と「七騎落」の中に唄われています。
この城願寺には、他にも樹齢800年、土肥実平が手植えしたと言い伝えられているビャクシンの老木も残されています。
このように、鎌倉幕府創立の主人公となった源頼朝ですが、平家を滅ぼして日本の王朝政治に終止符を打った最初の戦も現在の土肥郷、すなわち今の小田原から湯河原にかけてが舞台となり、その戦いにあって土肥実平は無くてはならない存在でした。
現在、この城願寺は土肥氏の菩提寺となり、本堂裏手の墓地の片隅には土肥一族の墓所が今でも残されています。
いま、ここで七騎堂に詣で、この土肥氏の墓所に手を合わせるとき、かつてこの辺りで繰り広げられた日本の歴史を大転換させる一大ドラマがあったことを思うとき、現在は訪れる人もあまりなく木々のざわめきだけが聞こえてくる境内に、時の流れのはかなさをしみじみと感じるのです。