湯河原町の城願寺から土肥城趾へと登っていく、細い坂道があります。
その道はまるで林道のようで車がすれ違うことも難しく、神奈川県の中でもヤビツ峠や三浦市の農道などに並んで五指のうちに入る「車で走りたくない道」のひとつです。
その路面は落ち葉が積もり、滑りやすいだけではなくカーブは激しく、時おり地元の軽トラックがスピードを出して迫ってくる道です。
このあたりの鬱蒼とした山並みは、ずっとずっと昔から変わっていないかのような錯覚を覚えます。
そういえば、この辺りはかつて石橋山の戦闘に敗れた源頼朝が、わずかな手勢とともに逃れ逃れてさまよったところですが、そのために、源頼朝にまつわる「石」がいくつか残されています。
この林道を注意深く登っていくと、右手に小さな看板が見えてきます。
「かぶと石」と書かれた木製の看板のわき、いかにも古道といった趣のけもの道を上っていくと、やがて巨大な岩が現れます。
これは、源頼朝が石橋山の合戦で敗れて、この山林を彷徨い落ち延びている時に兜を脱いで休息したところとされています。
源頼朝は脱いだ兜をこの岩に置いたと言われており、その事から今でもこの巨岩は「かぶと石」という名で呼ばれています。
ふたたび元の林道に戻って、少し上っていくと今度は「立石」という札が見えてきます。
この札のわきの山道を下っていくと、大きな長細い岩が崖っぷちに立っているのがわかりますが、これは源頼朝が自らの天下を占うために投げた巨石であると言われています。
対岸の斜面から石を投げ、もし石が突き刺されば吉、横倒しとなれば不吉と占ったもので、見事に山の中腹に立ったことから運が開けると信じた源頼朝ですが、後にみごと鎌倉幕府を開くにいたったと言い伝えられています。
これらの話はあくまでも言い伝え・・・
みうけんはインターネットで見つけた情報にすぎません。
歴史的な史料をいくつか見ても、どこにもそんな事は書いてありません。
しかし、こうして話が伝わり、立派に案内看板や散策路まで出来ているのですから、それなりに地元では意識されているようです。
そもそも、いかに歴史的に有名で鎌倉幕府を創設した偉大な武将であるといえども、見上げるような巨岩を反対の山から投げて地面に突き立てたというのはずいぶんと大げさな気もします。
正直、この話がいつどのようにして出来たのかは知る由もありません。
ただ、なんでもかんでも史実を求めるのではなく、人々の言い伝えにはこのように面白く興味深い話もあるということが改めてよく分かる興味深い話だと思います。