伊勢原の駅前から北上し、浄発願寺の奥の院へと至る道を登っていくと、やがて緑が目に眩しい日向の里へと辿り着きます。
この日向の里を流れる日向川は、厚木市の七沢で玉川へと合流し、本厚木の住宅街を抜けてやがて相模川へと合流していきます。
川ですから当然いくつかの橋が架けられていますが、そのうちの一つが「十二神橋」という橋で、言われなければ気づかずに通り過ぎてしまいそうな、とても小さな目立たない橋があります。
なお、現在の橋は昭和27年3月に竣工したものです。
この十二神橋は規模こそ小さいものの、しっかりと歴史のある橋です。
江戸時代に編纂された一大歴史史料である「新編相模国風土紀稿」のなか、「大住郡・糟屋庄・日向村」は「玉川」の項の中で、
村西。字黒坪谷。其外所々の清水。合て一流となり。東流して。愛甲郡に達す。
幅三間より六間に至る。按ずるに、和名鈔。愛甲郡郷土名に玉川あり。是此川に因て起こりし地名なるべし。土橋六を架せり。其内十二神橋と唱ふるあり。村内薬師堂縁起曰。十二神将の霊像。波に泛。自ら流に?て。花水の隅に着。今に至る迄。十二神を以て。橋に名つくるは。?自る所を。忘れさらしめん為也。也按するに。此下流花水川に落合余は小橋なり。此水を引て。村内田間の用水とし。又飲用にも用ゆ。
と紹介されています。
つまり、いつの時代かははっきりしないものの、ある日、日向薬師の十二神の神像が相模湾に姿を表しました。
波に乗り、川の流れを遡って、現在の平塚である花水へと辿り着きましたが、自らがやって来た所を忘れないようにするため、この橋に自らの名前を付けたと伝わっています。
神様がどこからやってきたか分からなくなるとは、威厳もなにもあったものではありませんが、日本の民話の中には子供にまで炙られてしまう神様がいるなど、神様というものはただ偉くて神々しくて近寄り難いだけのものではなく、民衆の中に寄り添って民衆とともにいき続けた存在でもあるのだなぁ、と思います。
いま、この小さな橋のそばで近くに迫る丹沢大山の山並みを眺めていると、同じようにハイカーが足を止めては川を覗き込む姿も見られ、この橋がいにしへより人々の暮らしに深く関わってきたことを思い知らされるのです。
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