みうけんのヨコハマ原付紀行

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。※現在アップしている「歴史と民話とツーリング」の記事は緊急事態宣言発令前に取材したものです。

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2人の美女の悲哀を伝える 小野小町ゆかりの小野神社(厚木市)

厚木市の市街地から、小さな玉川という川を遡って七沢へと向かいます。

とちゅう、左側には大手自動車会社の巨大な工場が見えてきますが、ひるがえって右側は小山の麓と谷間に民家が並び、その前には田畑が広がるといった牧歌的な風景が広がっています。

 

その小山の頂上に、小野小町にまつわる小町神社という神社がありますから一度行かれてみてはいかがですか、と読者の方からオススメを受けました。

そういえばこのあたりは小野と云う地名であるが、と思いつつ原付を走らせたのです。

 

すると、確かにこの周囲には小野小町にまつわる、と言われている旧跡がいくつもありました。

これは、そのうちの一つ「小町の化粧井戸」です。

今ではすっかり枯れていて井戸桁しかありませんが、小野小町はこの井戸の水を使って化粧をしたのでしょうか。

 

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また、近くの「小町の化粧池」には、池を鏡として化粧をしたという伝説が残されているようです。

今では水に自分の顔を写して化粧をする、というのはなかなか考えられない事ですが、むかしの女性たちはそのようにして美しさを追求したのかと思うと、ここにも歴史のロマンを感じさせられます。

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それらは小町の七不思議として、地元の方々に大切にされているようで立派な看板もありました。

海がない厚木の里で「小町海苔」というものがあるのも驚きですが、この小町の七不思議がどういう経緯があり、いったいどんな逸話があったのか、もう少し詳しく書いてあるともっと良かったと思います。

 

 

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 さて、この小山のふもとには広い駐車場がありました。

丁寧に公衆トイレまで備えられてあり、実にありがたい事です。

手水鉢の代わりにトイレで手を洗い、きつい階段を登って頂上を目指しました。

途中、「小町塚」という看板も目にすることができます。

 

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途中、息を切らせながら自らの運動不足を怨みつつ、ようやく登り切ると、そこには簡素な鳥居が建てられています。

あぁ、鳥居があったからようやく神社だな、と思うと実は階段はまだまだ上まで伸びていました。

 

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いったい何分かけたでしょう、息を切らせて登り切った其の先に、ようやく純白な社殿に真っ赤な屋根を持つ華麗な神社が見えてきました。

これこそが、世界3大美女ともうたわれる小野小町を祀る「小町神社」です。

 

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ここで、この小町神社というところは歴史的にどのように認識されているのでしょうか。

手元にある資料だけですが、ひも解いてみることにしました。

 

江戸時代末期に編纂された一大歴史資料である「新編相模国風土記稿」の「愛甲郡・毛利庄・小野村」の項には

 

文明十八年 道興准后回国の時。当所を小野小町出生の地と聞て詠歌あり。回国雑記曰。熊野堂と云所へ行ける道に。小野といへる里侍り。小町が出生の地にて侍るとなん里人の語り侍れば。疑わしけれど。色えて。移ふときく。云々

 

とあり、「疑わしけれど」という表現があるものの、室町時代の文明18年(1486年)、大僧正であった道興准后(どうこうじゅごう)が東国を回国した時にはすでにこの地で語りつがれていたことが記載されています。

 

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さらに「鎌倉根元記」にも「当所小町が舊蹟なる由を記せり」とあり、

 

曰。小野と云在所。大山より一里半ほど東の方にあり。

此所小野小町が出所といへり。

其村の後に山有。松の大木あり。

これ小町が舊蹟なりとて小町松といへりと。

按ずるに。小町は采女の通称なり。

当時此所より采女を貢したることありして。

地名により小野小町の事に附会せしにや。

 

とあります。

 

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采女(うねめ)とは、日本の朝廷において各地の豪族から献上された娘であり、天皇や皇后など朝廷に仕えて貴人の身の回りの事を行う女官のことでした。

飛鳥時代にはすでに見られた風習で、平安時代ごろには廃れていきますが、当然のことながら各地の美女が選抜されてくるので皇族の妾となることもあり、その子供を産むことすらあったといいます。

 

「按ずるに。小町は采女の通称なり。当時此所より采女を貢したることありして。

地名により小野小町の事に附会せしにや」(考えてみれば、小町とは「采女」のことを言いました。当時、この地から「采女」を献上しましたが、小野の出身だったために小野小町とこじつけたのでしょうか)と書かれているように、この地から世界三大美女とうたわれる小野小町が出生したかどうかは昔の人もマユツバだったようです。

 

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ちなみに、小野小町の事については詳しく書かれていましたが、前述の「新編相模国風土記稿」では小野神社に関しては「小町神明社」という表題で、

 

小町山にあり。小野小町を祀ると云。例祭正月七月の廿二日なり。

 

と簡潔に紹介しているに過ぎませんでした。

 

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また、ここにはもうひとつの伝説が残されています。

当ブログでもたびたび紹介させていただいている、源頼朝の愛妾である丹後の局にまつわる伝説です。

 
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小野小町が生きた時代から200年ほど後の鎌倉時代のはじめ、鎌倉幕府を創設した源頼朝の側室であった丹後の局はもともと絶世の美女と評判も高かった女性でした。

 

それが、源頼朝の正妻である北条政子よりも先に身ごもってしまったことで、もともと気性の激しかった北条雅子の嫉妬と逆鱗に触れ、刺客として武将の畠山重忠が差し向けられます。

 

しかし、畠山重忠の家来であった本田次郎近常が裏切って、丹後の局を連れて大阪方面へ逃亡するという事件が起きました。

 

この前後のはなしは諸説あってどれが本当か分らないほどですが、この小野の里に伝えられている言い伝えでは、地元の豪族であった愛甲三郎季隆が丹後の局をかくまい、小野の山奥に隠し住まわせたと言い伝えられています。

 

そのような逃亡生活で精神に負担をかけたのか、それとも北条政子の恨みが届いたのか、丹後の局の自慢であった美しい黒髪はたちまちのうちに老婆のような白髪へと変わり、自らの変わりようを嘆いた丹後の局は日ごとに小町神社の祭神であった小町姫にすがり、数日間にわたって祈願をしていました。

 

すると、不思議なことに白髪だった髪が元のように美しい黒髪に戻り、それ以降丹後の局の美貌は損なわれることがなかった、と小野の里では言い伝えられています。

 

この評判は瞬く間に近隣の村々へと広まって、小町神社には、美を追求する女性が多く訪れては絵馬を奉納したということです。

 
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いま、この高台に建つ小町神社の境内から穏やかな小野の里を眺めるとき、世界にたぐいまれなる美貌をうたわれた小野小町や丹後の局も同じ風景を眺めたのかと思うと、ひときわ感慨深いものがあります。

 

いつかは訪れる自らの老いを嘆き、

 

 花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせし間に

 

と歌を残した小野小町や、自らの美貌があだとなって追われる身となった丹後の局の悲哀がひしひしと伝わってくるかのようです。

 

 

 

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