神奈川県を東西に分ける相模川を渡り、国道1号線を西に向かって進んでいく。
この道はかつての東海道で、江戸から京都を結ぶ主要な街道であったが、現在は交通量が多く、自動車向けに整備された大通りとなっている。
そんな国道1号線を進み、花水川を渡って右手にこんもりとした高麗山を眺めながら西進していくと、やがて化粧坂の交差点に差し掛かるが、そこから右の東海道旧道はかつての東海道の名残をとどめる並木道となっている。
ここから伸びる東海道旧道は化粧坂(けわいざか)とも呼ばれ、江戸時代後期に編纂された一大地域史料である「新編相模国風土紀稿」には、淘綾郡 二ノ宮庄 大磯宿の項で「【化粧坂】当方並木ノ中間。小高キ場所ヲ云。」とのみ紹介されている。
現在において、化粧というのは「けしょう」と読み、このような史跡や地名としては「けわい」と読ませるのが多く、その他例は鎌倉の化粧坂などにも見られる言葉であるが、これはもともと古語のひとつであり、「身だしなみを整える」という意味でも使われたという。
この化粧坂の脇には、虎御前が化粧をしたと言われている化粧井戸が今なお残されている。
この化粧井戸と虎御前の関係について、当地に立てられている案内看板には
「化粧」については、高来神社との関係も考えられるが、伝説によると鎌倉時代の大磯の中心は化粧坂の付近にあった。当時の大磯の代表的女性「虎御前」もこの近くに住み朝な夕なこの井戸水を汲んで化粧をしたのでこの名がついたといわれている。(原文ママ)
と簡単に紹介されているのである。
現在、この化粧井戸は水は涸れ果て、小さな屋根の下に古びた井桁を残すだけのものとなっている。
虎御前というのはもともと大磯にいた遊女であり、兄の曾我祐成の妾であったため曾我兄弟の仇討ち事件のあとに捕らえられるが、罪は無きとして放免されると箱根で曾我祐成の供養に専念し、19歳の時に曾我祐成の愛馬を携えて信濃善光寺に出家したとされるのは過去記事でも述べたとおりである。
化粧坂という地名は、かつて都や神域との「内界」と、それ以外の「外界」を隔てる境界でも多く見られる。
鎌倉の化粧坂がまさにそれであるが、ここもかつては相模国の国府に近い場所であったし、江戸期に至るまで西側には国府本郷や国府新宿という地名が残るくらいであるから、当時の国府のハレの舞台に出る前に身だしなみを整える、そんな場所で会ったのかもしれない。
この街は東海道の一部として、虎御前だけではなく多くの人が行き交った場所でもある。
また、「新編相模国風土紀稿」淘綾郡 二ノ宮庄 大磯宿の項で「建仁元年六月。源頼家。江島ニ詣スルノ序。當驛ニ止宿シ。遊女ヲ聚テ歌曲ヲ催セシ事アリ。」とあるように、多くの遊女もいたことは間違いないようである。
かつて、ここのあたりは宿場町として、街道の拠点として、また国府や高麗神社などの門前としても多くの人で賑わい、それを当て込んだ宿屋や茶屋、果ては遊女屋までもが立ち並んだことであろうか。
今では人通りも少ない並木道の片隅に、木々に埋もれるようにして涸れ井戸が残るだけの寂しい場所であるが、ここがかつては人々の営みの中心でもあったであろう事がにわかに思い出され、吹き抜ける海風の中に昔日の賑わいが聞こえてくるようである。