小田急線の渋沢駅から南側、曲松一丁目の交差点のあたりが、かつての街道である矢倉沢往還の道となる。
矢倉沢往還は過去記事でも紹介したが、江戸の赤坂見附にあった赤坂門を起点として武蔵国、相模国から足柄峠を経て駿河へと至る街道であった。
江戸時代に民間の間で盛んとなった手軽な旅行の代名詞、大山詣でや富士山詣りの道としても利用され、現在の青山通りと国道246号線が大まかな道筋であるが当時の街道沿いには茶屋や宿場が並んで大変な賑わいであったという。
この街道の脇には現在もいくつかの道標や石仏が残されており、さらに上記に紹介した過去記事のあたりなどは昔のままの姿を見せるところもある。
特に、秦野の十日市場(現在の曽屋通りから本町四ツ角あたりとされる)を中心に曽屋、千村の宿場も併せて秦野あたりは重要な拠点としても賑わっていた。
この千村の集落の程近いところには、今でも当時の「二つ塚」と呼ばれる塚が残されていて、往事を偲ぶ事ができるのである。
この塚は「二つ塚」と書いて「ふたんづか」と読ませ、新編相模国風土紀稿の大住・愛甲・高座郡 千村の項には「二塚と呼。供養塚なり」とだけきされているが、特に向かって左側の地神塔は道標の役目も果たしていたという事であり、右側面には「右 大山 十日市場」と彫られているのがはっきりと残されているのである。
また、この「二つ塚」より少し西に行ったところの千村地区は、矢倉沢往還のかつての姿が今なお良好な状態で残されており、この辺りを歩くとまるで江戸時代の飛脚でも走ってくるのではないかという錯覚に囚われてしまうのである。
当時はスマホもGPSもない時代であったから、旅行といえば簡素な地図と道標が頼りであった。
そのため、この矢倉沢往還や東海道を擁した相模国の辺りには不動明王をいただく道しるべなどが多く残され、ここ「二つ塚」にも富士山を信仰した人々が残した冨士浅間大明神の碑などが残されているのである。
いま、時代は流れて交通の要は新しく開かれた国道246号線へと移り、かつての主要街道はすっかり道も細いままで、今となっては地域の生活道路のような趣である。
この小高い丘に登って草むらの中に寂しく立ち続ける地神塔に手を合わせるとき、かつての旅姿の人々のざわめきや牛馬の蹄の音がにわかにこだましてくるようで、ここにも昔日の懐かしき日の思い出が生き続けているのである。