交通量の多い三浦海岸の駅前の道を山側へと登り、青木田公園の角を右に入ります。
この先はかつて田んぼばかりだった谷戸で、現在は開発され住宅街となっていますが、この先の2つ目の角を左に折れると右手の畑の上に山林を見上げる奥まった道となります。
この先の右手に、細い砂利道への登り口がありますが、この砂利道はかつて根本坂と呼ばれていました。
この坂は車は通るのは少々大変そうです。
原付でも危険なので、歩いて登ってみました。
うっそうとした木々の梢からは陽光が漏れ、その上を旋回するトンビの声が聞こえてきます。
道は、というと崖を切通しにした如何にもな古道の趣です。
かつて三浦半島の道というものは、いや三浦半島に限らず、街道というものは、皆こういった感じだったのでしょうか。
この坂を登り切ったところには、現在でも畑の片隅に「今日塚」という塚が残されています。
畑の片隅にこんもりとした塚があり、そこだけ草が残って篠竹まで茂っています。
この塚を脇からじっくり見ていたら、農作業をしていた方から「それ、塚だから踏んじゃだめよー」と言われました。
やはり、地元の方々は現在でも塚として記憶されているようです。
ええ、踏んだりしませんとも!!
しかし、今日塚というのは珍しい名前です。
経文を埋めたという「経塚」なら聞いたことがありますが、今日塚というのは初めて聞きました。
もしかすると、もとは経塚と呼ばれていたかもしれませんが、蔵書である資料「新編相模国風土記稿」などには詳しい由来は記されていませんでした。
これは図書館で借りた資料「三浦こども風土記」によれば
鎌倉時代の戦死者を埋葬したものらしい。ここに鋤鍬を入れると必ず祟りがあり、病気になると忌み嫌われて、里人は近寄らなかったと言い伝えられている。
と紹介されています。
このような塚は、たいして記録に残ってなく、決して観光地などにはなっていないけれども、今でも三浦半島の畑の中にいくつも残っている、と三浦半島在住の方から聞いたことがあります。
それらは畑の中に取り残されたようにこんもりと残り、そういえば過去記事でも「義士塚」や「タッチャバ塚」というのを紹介したことがあります。
おそらく、この今日塚も、そうやって地域の里人たちから大切に語り継がれ、または恐れられて、今まで手つかずで残されてきたひとつなのでしょう。
この塚があるあたりはすっかり高台で、指呼の間に広々とした畑と大空、はるかに三浦の街並みを望むことができました。
今日も、今日塚に眠ると云われている名もなき無名武士たちが、はるかに見下ろす三浦の街を静かに見守っているかのようで、感慨もひとしおでした。