わが蔵書「三浦半島の史跡と伝説」(松浦豊著)という古い本に、気になる話が載っていました。
和田にかつてあった天王様のご祭神は「唖(おし)であった」というのです。
唖(おし)という言葉は現在ではすっかり死語になってしまいましたが、要は上手に話すことができない障害のことです。最近では聴覚障害者をさす「聾唖者」(ろうあしゃ)の「あ」の部分でしか用いられない漢字となりました。
和田にかつてあった天王様、というのは現在は八雲神社があるところだと説明されています。
この初声町和田の里は、かつて三浦大介義明の孫であり、鎌倉幕府の侍大将として名を馳せた和田義盛の館があったところです。
八雲神社の鳥居をくぐると、現在は和田義盛の大きな石碑が建っているところがありますが、昔はここに天王様が祀られていたそうです。
この天王様と和田義盛との関係については詳らかではないものの、天王様についてこんな話が記載されていました。
天王様といえばどこでも、その祭礼たるや神輿の渡御で賑やかなのが通例です。
しかし、和田の天王様に限ってはその祭礼はとても静かなものだったそうです。
それには理由があり、むかし祭礼を賑やかにやったところ、御祭神がたいそうお怒りになりました。
というのも、里人たちの賑やかな笑い声を聞いたご祭神が、御自分の「唖」を笑ったのだと勘違いしたというのです。
そのため里人たちは天罰を受けてしまったので、それ以来は祭礼をひっそりと行うことにしたというのです。
しかし、それではつまらぬと思ったのか、100年以上前に天王祭を派手に行なってみたそうです。
すると、たちまち里に疫病が流行して里人を大変に苦しめたので、里人は相談して翌年の祭を止めてしまったという事です。
それからは悪い病気も出なくなったものの、天王様の賑やかな行われることはなくなってしまったという事です。
最後に、「三浦半島の史跡と伝説」には
天王様は和田の白旗神社に合祀されて、昔の鳥居だけが今も寂しく残っている。
とありました。
しかし、白旗神社の案内看板にも、神明社が合祀された旨は記されていても天王様についての記述はありませんでした。
正直言いまして、ほかの文献も見てみましたが、このような話が載っている史料は他には見つけることができませんでした。
しかし、日本の神様というのは俗っぽく、すぐに怒ったり、やきもちをやいたり、欲張ったり、という話が全国に多く残されています。
ひどい話では「子供に火をつけられたので、海に飛び込んで消した」なんて言い伝えもあるほどです。
海外では総じて神様とはあがめて尊きもの、完全無欠なもの、という扱いですが、ここまで俗っぽい神様の話が語られるのも日本ならではでしょう。
今となっては、この天王様の昔話を調べる術もほとんどありません。
この近くで落ち葉を掃除していたおばあさんに聞いても、そんな話は聞いたこともない、と笑われてしまいました。
この天王様の話は、三浦半島でも珍しいものだろうと思います。
願わくば、この「三浦半島の史跡と伝説」を上梓された松浦先生にお会いして、もう少しこのお話を詳しくお聞かせ頂きたかったなぁ、と思いつつ、原付をまたいで白幡神社を後にしたのでした。