本牧の大鳥中学校のちかく、本牧通りから一歩入ったところにある吾妻神社は、地元では「お吾妻さま」と呼ばれて親しまれ、こぢんまりとした小さな神社でありながら正月の初詣の際には多くの参拝者でにぎわう、典型的な地元の鎮守様である。
もともと、この本牧のあたりは漁業も盛んな場所で、現在は渚はすっかり埋め立てられてしまって見る影もないが、江戸時代にはたいへん良質な魚が取れる豊漁の漁場として日本橋の新肴場と呼ばれた魚河岸に魚を卸していたといい、数多くの漁業関係者から寄進された石玉垣は今でもその名残をとどめているのである。
この吾妻神社の神さまは、日本武尊(やまとたけるのみこと)であるが、昔から「子供が大好きな神様」として広く親しまれてきたという。
もともとは現在の千葉県にあたる上総国の木更津に鎮座されていたそうだが、元和3年(1683年)に神社が大火に見舞われたので、東京湾を渡って本牧へと引っ越してきたらしい。
ある日、子供たちが境内に集まって焚火をして遊んでいた。
わざわざ燃えにくい青木や青葉をとってきては火の中へ放り込み、たくさんの煙を出させては相手のところへあおぎ、またあおぎ返される、そんな遊びをしていた。
そのあまりにも楽しそうな歌声と叫び声に、子供が大好きな神様は本殿の戸を少しだけあけてうらやましそうに様子をうかがっていたが、それと同時にただの煙で楽しそうに遊んでしまう子供たちの知恵にも驚かされていた。
神様はいてもたってもいられなくなり、こっそりと本殿から抜け出すと焚火の煙の中へとやって来て、わしも仲間に入れてくれないか、としわがれた声で子供たちに願い出たのであった。
さて驚いたのは子供たちである。
声はすれども姿は見えず。「お前は誰だっ!姿をあらわせ!」と叫ぶ子供たちに対し、神様は「わしはここの吾妻じゃ。どうか、仲間に入れてくだされ」と願ってくるので、子供たちはさらに驚いて目を丸くし、どうしていいかも分からずに見つめあうばかりだったことだろう。
しかし、神の心子知らず。
「煙の中におるぞ! 煙を消せっ!!」と、子供たちが枯れた葉をたくさん投げ込んだものだからたまらない。
煙はなくなったが、その代わりに真っ赤な炎がみるみるうちに燃え上がり、神様にまで火が燃え移ったので、神様はほうほうの体で海に飛び込んでは火を消す始末であった。
その話を聞いた大人たちはカンカンになって子供たちを叱りつけたが、神様は「子供を叱るではない。せっかく楽しく遊んでいるのを邪魔したわしが悪いのだ」と大人に言い聞かせたという。
この時から、吾妻さまは子供好きの神様として評判となり、子供が熱を出したと言っては吾妻さまにお参りし、夕暮れになっても子供が帰らなければまず吾妻さまの所へ探しにいくなど、子供がいる家庭からはたいへん親しまれたという。
やがて、子供が大好きな神様であるからと、粟もちを供える習慣も生まれ、この噂は海を渡って、もともと吾妻さまのおられた木更津にもきこえ、毎年7月17日の吾妻神社の祭礼の日には木更津からも舟に乗ってお参りに来ては、子供の御守を頂いて帰る人すらいたという。
いま、時代は平成から令和へと変わり、そのような風習もすっかり影を潜めてしまったかのようであるが、この吾妻神社の近くには新しく幼稚園が出来、時折園児たちが手をつなぎ、楽しそうに歌っては吾妻神社の境内に散歩に来ている姿を見かける。
この天下泰平の時代。
子供が好きな吾妻さまは、子供たちの平和ですこやかな成長を目を細めながら眺めておられることであろう。