横浜市中区、本牧の街を周回するように流れる本牧通りという大通りがある。
その「三之谷交番前」の交差点を海側に入っていくと、ほどなくして見えてくるのが吾妻神社(あずまじんじゃ)の鳥居である。
ご祭神は日本武尊で、創建年代は不明であるが江戸時代の古文書「風土記稿」には、すでに本牧本郷村の鎮守として紹介されているのである。
もともとの御神体は、惜しむべくかな大東亜戦争時の横浜大空襲で失われてしまった。
ご神体の背面には文和3年(1354年)正月十七日、「祠 基新 謹 平重人」と記載されていたといい、それは新田義貞の家臣であった篠塚伊賀守重人が勧請したとの説を今に伝えている。
この神社の狛犬は俗にいう砲弾狛犬というもので、同様なものはお三の宮日枝神社にも残されている。
この狛犬は、ほかの多くの狛犬と同じように阿(あ)と吽(うん)に分かれているのは、ご存知の通りであろう。
通常、一般的には口を開いた「阿」(あ)は向かって右側の獅子像で、口を開いた状態であり、厳密には犬ではない。
こちらの獅子像は球形の砲弾を持っており、そこには「戦捷」と刻まれているものの、これだけでは砲弾には見えないのが面白いところである。
また、向かって左側には「吽」(うん)と口を閉じた狛犬がいて、特に古いものには角を持つものもいたが、早くも鎌倉時代後期以降になると角は省略されるようになってゆき、特に明治の文明開化以降に作られた物は左右ともに角が無く、口の開き方でしか見分けがつかなくなっている事が普通である。
こちらは、いわゆる砲弾らしい形をしており、「紀念」と刻まれている。
これらは、明治38年9月のポーツマス条約により終了した日露戦争に勝った事を記念して作られたものであり、極東の新興国日本が超大国ロシアを打ち負かしたとあって世界中に大きな衝撃を与えた事は読者諸氏のほうがお詳しい事だろう。
もちろん、国内にあっても日露戦争に勝った事に対する喜びようは大変なもので、日本各地でイルミネーションや記念碑などがこぞって作られ、人々が押しかけた提灯行列では死者まで出る騒ぎであったという。
この狛犬も、お三の宮の狛犬も戦後1~2年たった明治39~40年の建立であり、この頃から日本は急速に自信をつけ、国力も増強し、やがて自信が過信となって奈落の底へと落ちていく事になるのである。
いまや、この狛犬が建立されてより110年あまりの月日が流れている。
そのかん、わが日本は支那事変、大東亜戦争と敗戦、昭和の高度経済成長から平成の大不況、そして新しい令和の幕開けと、大きな転換期を何度も迎えている。
物言わぬこの狛犬も、この地で目まぐるしく変わる時代の流れを目の当たりにしてきた生き証人なのである。