三浦半島の江奈湾に面した松輪集落は古くから栄えた漁村で、現在でも名物「松輪サバ」は広く知られているが、普段は観光客など滅多に来ないような静かな漁師町であり、その片隅にあるのが松輪地蔵堂である。
地蔵堂とはいっても扁額などは何もなく、一見すると小さな民家のようにも見えてしまうが、よく見れば玄関の上には小さな鰐口が下げられており、わずかに仏教寺院の面影を残している。
近所の方にお願いして見せて頂こうとしたら、「開いてるから拝んでいって」との事で堂内を拝見させていただいた。
失礼ながら、この物置小屋のような地蔵堂の奥には数体の地蔵尊にまぎれて、「隠れキリシタン灯篭の竿」と伝承されているものが残されている。
わが蔵書には地域誌研究家、松浦豊氏(故人)の研究書「三浦半島の史跡と伝説」という本がある。
それによると、これは迷彩された隠れキリシタン灯篭の竿部分であり、高さは78センチの花崗岩製、上部はやや丸みを帯びて十字架を表し、その中央正面には卍十字架が陰刻されている、との事である。
卍紋の縦線は、交差部から測ると上の線は長さ5センチあるが、下は6.5センチと長くなった完全なるラテン十字架をかたどった「隠れ十字架」であると紹介されているのである。
卍十字架の下にあるのは、袈裟を来た地蔵菩薩に見えて、その実はマリヤ像であるとされ、なるほどそう言われてみればそう見えてくるのだから不思議なものである。
再び「三浦半島の史跡と伝説」によれば、この「隠れキリシタンのマリヤ灯篭」の発見の経緯について述べられている。
それによれば、この近くには鈴木ふみさんという方が住んでおられた。
この周囲には鈴木姓が多いが、そのうちの一軒であろうか。その三代前の先祖である鈴木文三郎氏と、子息の新吉氏が江奈湾沖合の横瀬島の東方でミヅキの漁業中に海中に沈んでいたのを見つけて引き上げ、地蔵堂の中に安置したと伝えられている。
さらに、この灯篭に残る「明治二十八年 海中出現」の陰刻についても、「これは恐らく迫害と弾圧に耐えかねた切支丹信徒が、身に迫る危険を感じ、この地に聖なる静かな場を求めて、夜陰に乗じて密かにこの灯篭を船で運び、人里離れたこの島に捨てたものを、あとになって潜伏信徒が海中より拾い上げたとまことしやかに吹聴し、村人の注意をそらして巧に煙滅し、聖なる信仰の場として温存したものであろう」と研究されているのである。
確かに弾圧の厳しかった江戸時代、これは地蔵菩薩であると言い逃れができて仏教徒のごとく装うこともできる。全国には、このような事例がいくつか残されているという。
これはあくまでも松浦氏の研究からの抜粋なので、それ以上の事は分からない。
色々と地域史料を図書館で探したりもしたが、どれも書かれていることは似たり寄ったりで、それ以上は、この灯篭が隠れキリシタンのものであるという決定的な文書などの証拠は見つけることができなかった。
もし、この灯篭が隠れキリシタンのものであるのならば、弾圧厳しく信仰が困難だった時代、決して曲げることが出来ない人々の信仰心と、どうにかして信仰を守ろうと知恵を絞ったいにしへの人々の姿が思い起こされるようである。
また、このマリア像と言われている石仏にもしっかりとした地蔵菩薩の御詠歌が堂内に残されており、
ふみまよう しょうじがはらの つえはしら
すがれもろびと じぞうぼさつに
という御詠歌を読むたびに、地蔵菩薩としても人々から愛されてきた昔日がよみがえってくるかのようで、自然と手を合わせてしまうのである。