京浜急行の追浜駅から駅前の16号線を北上していくとすぐに雷神社の鳥居が見えてくるが、雷神社をすぎてすぐのところに、立派なお堂に入った六地蔵や庚申塔が所狭しと並べられているのが見てとれる。
これは傍示堂(ほうじどう)石仏群といい、この近辺の浦賀道に祀られていた6地蔵や庚申塔を集めたもので、もともとはもう少し分散して祀られていた石仏たちであろうか。
かつて、このあたりは鷹取山に連なる山々が続く険しい山道で、その山を貫く「浦賀道」が通っていた場所である。
その中でも、このあたりは現在の追浜である浦郷村と、現在の金沢区六浦の六浦荘村との境であった上に、相模・武蔵の国境線でもあったことから、隣の村から悪人や病気が入らないようにと意味で石仏や庚申塔を多く建立したのである。
この傍示堂石塔群には、主に六地蔵が祀られており、その造形はさまざまで中には首が落ちてしまっているものもあるが、本来六地蔵は六道に現れて亡者を救済し導きたまうとして広く民衆の信仰を受けたのである。
六道というのは人間が生前に行った善悪により振り分けられる、いわゆる亡者の行先のようなもので苦痛のない順番に天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄と別れていた。
生きとし生けるものは全て輪廻転生し、悪行を積んだものは地獄に落とされるのは有名であるが、俗に言う「天国と地獄」だけではなく、死後の世界というものは、こうして細かく細分化されていたのである。
また、日本全国に多く残る庚申塔は、人間が穀物を食べるようになって、穀物のなかに住んでいる「三尸(さんし)の虫」が人間の体内に入って人間の言動を全て記録し、干支の庚申(かのえさる)の日の晩、その人間が眠るとただちに天帝の元に赴いては人間の悪事を報告する、という信仰があった。
そのため、庚申の日に「三尸の虫」が体内から出ていかれぬように、庚申の日には仲間内で集まり、夜を徹して語り明かしたのだという。
その「庚申講」を13回成就させると、庚申塔を立てて記念としたのが今でも全国各地に残されているのである。
以前は、いろいろなところに建てられては道ゆく人を見守り、また村の入り口では睨みをきかせて村人の平和と安寧を守り続けてきた石塔群である。
しかし、次第に山が切り開かれて国道となり、海は埋め立てられて軍用地となり、谷が切り開かれて住宅地に変わっていくにつれて、行き場を失った石仏たちはこうして一ヶ所に集められたのであろう。
いま、交通量も著しい国道の脇に立ち、静かに居並ぶ石仏たちに向き合って手を合わせるとき、いつまでも変わる事のないこの街の平和を見守る石仏たちの語りかけが聞こえてくるようである。