横浜市の中心部を離れ、相鉄線の二俣川駅前の喧騒を抜けて南下していくと、すっかり開発された住宅街の中に突如として森林うっそうと茂る自然公園があり、休日ともなれば多くの家族連れが押し寄せてはにぎわう「こども自然公園」が見えてくる。
この日は平日であったので家族連れの姿は少なかったが、地域のお年寄りが集まっては散歩を楽しんだり、池に釣り糸を垂らしていたりして、その姿はまさに平和そのものといった穏やかな公園なのである。
そのこども自然公園の真ん中にはいくつかの溜め池が残されている。
特に大きな池は、その名も大池と呼ばれて静かな水面に水鳥が浮かび、岸には釣り糸を垂らす太公望が並んでいるが、この池は古くから「本宿の大池」と呼ばれており、この近辺の二俣川村の田畑を潤していた溜め池でありばかりか、元久2年(1205年)6月に畠山重忠公と合戦した北条時政の軍勢が、この池の水で炊き出しをしたという記録が残されているから、その歴史は相当に深いものだろう。
この池の畔には、今では訪れる人もまばらな小さな祠が祭られており、案内看板によれば江戸時代末期の寛政2年(1790年)に建立された弁財天の祠で、本願は天明2年(1783年)に各地を襲った天明の大飢饉での餓死者を慰めるために建立されたとあるが、飢饉の犠牲者を慰めるのに弁財天というのも不思議なものである。
また、飢饉の供養のほかにもこの池と弁財天には不思議な大蛇の伝説が今なお残され、古老たちによって語り継がれ、また小学校の学習教材にもなっているという。
言い伝えによれば、むかし、このあたりで頻繁に猟をしていた男がいた。
男が池の畔で身を隠して獲物を待っているときに、にわかに眼前の葦の葉が揺れたのを認め、男はその方角に向けて鉄砲玉を放った。
男はてっきり鴨を仕留めたと思い込み、喜び勇んでその葦の茂みのほうに駆け寄ったが、そこに倒れていたのは鳥でもなければ兎でもなく、巨大な大蛇が血を流して倒れているのであった。
男は驚いてほうほうの体で逃げ帰ったが、その話を聞かされた村人たちは、それは池の主に違いない、池の主を殺してしまえば池が枯れて田が枯れるか、池があふれて村が流されるか、どのような祟りがあるか分かったものではないと大いに恐れおののいたのである。
そこで村の長老が寺の住職に相談に行ったところ、もともと蛇というものは弁財天の眷属=使いである。弁財天は水神でもあるから、池の畔に弁財天を祀って大蛇を慰めるのがよかろうということになり、村人が金を出し合って弁財天の祠を祀ったのだという。
それ以来、毎年5月の初めには村人たちが集まっては弁天様にお神酒をあげて豊作を祝い、ひとたび干ばつとなれば村人から選ばれた数人が身を清めて大山阿夫利神社に詣でた。大山にある阿夫利神社は「雨降り神社」がなまったものと口伝され、雨乞いに霊験あらたかと信じられたご神水を持ち帰っては大池に注ぎ、弁天様に雨が降るようお願いをする雨乞いの儀式が執り行われたのだという。
このような儀式は昭和33年(1958年)まで行われ、そのころまでは桜が咲けば桜見物に、余暇の日には遊覧にとかなりの賑わいを見せたのだという。
だが、時代は流れて昭和は平成、平成は令和となり、周囲から田畑の姿はなくなり雨乞いの儀式も廃れると、この大池は公園の一部となり今となっては家族連れや釣り人たちの憩いの地となっている。
いま、訪れる人もめっきり少なくなった弁財天の祠に手を合わせ、この池に集う水鳥と釣り人たちを眺めつつ、そしてザリガニ釣りに興じる子供たちの楽しそうな声を聴いているとき、生きることすら困難で、毎日の糧を得ることすら大変であった時代を生きた先人たちの労苦が思い起こされ、いまの平和で豊かな時代を生きることのできる喜びをかみしめずにはおれないのである。