小田急線の秦野駅の北側、神奈川県道70号秦野清川線は国道246号線名古木交差点から宮ケ瀬へと向かう主要道路です。
その秦野清川線の藤棚バス停の南側の分かれ道のところに、こんもりとした塚とともに、いくつかの石碑が建っているのを見ることが出来ます。
ここの道は、かつて坂本道と呼ばれる街道でした。
落合から寺山の横畑を経て、いより峠を越えて坂本(伊勢原市大山)へ通ずる道路を指し、長さ3500メートルにも及ぶ道した。
特に、横畑のあたりには500メートルにも及ぶ見事な杉並木があり、そこでは野猿が出てきては旅人を慰めた、という伝説も残されているといいます。
この並木は明治期の末には伐採されて、今となっては往時を偲ぶよすがもありません。
ただ、県道としての重要性は大正時代末期まで保たれていた、と「古道解説」には説かれているのです。
ここは元々は3基の円墳からなる道永塚古墳群という古墳群で、墳丘に道永墓があるものが道永塚と呼ばれ、その脇の畑の中に2基の円墳が残されています。
道永墓というのは、道永という修行僧が現在の大山阿夫利神社と同じであった大山寺の繁栄ぶりをねたんで火を放ちました。
その罪状が明るみに出るや、たちまち村人たちに捕らえられて、ここに生き埋めにされたのが由来だそうです。
ここに建立された道永塚の碑は明和8年(1771年)、江戸幕府の第10代将軍徳川 家治公のころのものです。
蓑毛の宝蓮寺24世住職が記した「薦福記(せんぷくのき)」という碑文が残されており、そこには漢文で数百文字が彫られています。
しかし、これまで漢文の読み下しが一定せず、200年間いろいろな解釈が行われ論争の種となってきましたが、大まかな解釈でいえば
ここに古くから道永墓があり、夜々不思議な火が起滅した。
宝蓮寺23世の大蟲(だいちゅう)老師が言うには、ここは昔の戦場であった。武士の魂が成仏できずに夜ごとにさまよっていた。
経を読むと火は滅し、辺りは澄んだ月のように静かになった。
それを知った村民は、合議のうえ碑を建てて以来永く供養するものである。
という事が記されているそうです。
この道永塚は江戸後期に編纂された一大地域史料である「新編相模国風土記稿」の大住郡 波多野庄 寺山村の欄にも紹介されています。
【道永塚】
北界にあり。高七尺。塚上に石碑建てり。文字あれど漫滅す。由来詳ならず
、とのみあり、この時代には碑文はすでに読み辛くなっていたようです。
今まで多くの学者や研究家が取り組んできた道永塚の碑文解読ですが、今となっては「新編相模国風土記稿」に紹介された時代より、さらに180年前後の年月が流れていることになります。
この間にも日々、碑文は摩滅して読みづらくなっている事でしょう。
「タウンニュース」の2018年4月13日号の秦野版では、地域史の研究をする方が拓本を取り蓑毛の宝蓮寺へ寄贈されたという記事もありました。
今後も、このような小さな歴史が、志ある地域史研究家の方々によって研究され、広く世界へ発信されていく現代のありようが実に頼もしく、これからも道永塚が末永く地域で愛されるようにと願いながら手を合わせて、この地を後にしました。