みうけんは、神奈川県の三浦半島が大好きです。
山と海の美しさを兼ね備え、実に風光明媚で歴史も奥深く、よって見どころも多く、自宅からも近い。
とにかく、ブログのネタにも事欠きません。
そんな三浦半島を、今日も元気に原付で駆け抜けました。
燦燦と降り注ぎ、半袖の腕に突きささる日差しを避けるかのように、まるで「となりのトトロ」にでも出てきそうな緑のトンネルをくぐってしばらく行くと、相模湾に面した三戸浜に出ます。
三戸浜に面したこのあたりの里は、昔から多くの人が息づいてきたところで、古くからの家の表札には名字だけではなく屋号も記されているなど、新興の住宅地にはチョットないような光景も楽しめたりもするのです。
さて、そんな三戸の里を抜けていくと、みうけんが気に入っている古刹のひとつ、浄土宗寺院である龍圓山 福泉寺があります。
このお寺は鎌倉にある光明寺の檀家であった進藤和泉守権左衛門という人が、常日頃から深く阿弥陀如来を信心していましたが縁あってこの三戸の地に移り住み、その子の隼人正が父の菩提を弔うために、永禄年間(1558~1570年)に創建したとされます。
永禄年間というと、ちょうど戦国時代で武田信玄や織田信長、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)らが活躍したころですから、それを考えただけでもとても歴史のあるお寺です。
現在でも、この福泉寺の周囲には進藤姓の家が多く、今でも子孫は連綿と続いているようです。
この福泉寺の御住職は、ずいぶん前に御朱印をいただいたとき、少しお話しをさせて頂きました。
とても徳の深い優しげな御住職で、このお寺が戦時中にどのような暮らしぶりだったかなどをいろいろとお話を頂いたのが今でも印象に残っています。
また、このお寺には興味深い隠れキリシタンのマリア像と呼ばれるものが残されているなど、とても興味深く見どころの多いお寺でもあるのです。
この福泉寺の門前には、上記のマリア像のほかにもいろいろな石像が残されていますが、今回特に気になったのが「一切亡虫魚墓」と陰刻された石塔で、これは比較的新しいものです。
このような石塔は、三浦半島の中でもなかなか珍しいものである、とみうけんは思います。
残念ながら、このお墓について詳しい記録は残されておらず、分かることといったら側面に「嘉永七年四月」とあるくらいものです。
嘉永7年というのは1854年、江戸時代の末期で アメリカ東インド艦隊のペリー提督が4隻の黒船を率いて浦賀沖にあらわれた翌年となります。
一切亡虫魚というのは、読んで字のごとくですが全ての生きとし生ける虫や魚、ひいては生きとし生けるものすべてのいのち、という解釈もできると思います。
どうも仏教というのは人間を中心に考える宗教であると誤解されがちですが、牛馬を供養する牛頭観音や馬頭観音があったり、むやみやたらに罪のない生き物を殺すと「等活地獄」などで責め苦を受ける教えがあるなど、意外にも人間以外の動物にも優しい宗教なのです。
古くから、ここ三戸の里に限らず、人々は多くの生き物たちの命を頂いて生きてきました。その行いは今も変わらないし、それゆえに決して食べ物を粗末にしてはいけません。
生きとし生けるものは輪廻転生の対象であり、この世に等しく生きる権利を持っている、とみうけんは思います。
我々はその権利を奪って命を生きながらえているのですから、そのことに感謝するのは当たり前の事であると思いますし、とても美しい事だと思います。
きっと、この「一切亡虫魚墓」を建立された方も、そのような信念を持っていたのでしょう。
このような石塔を一つ建てることは、当時ではけっこう大変な事でした。
費用も相当にかかったはずですが、昔の人たちはそれでもこのお墓を建立し、自らを生かしてくれる数多くのいのちのために祈りを奉げたのです。
いま、日本はすっかり飽食の時代となりました。
世界中で飢餓と貧困に斃れていく子供たちがいる反面、日本人は多くの食べ物を輸入しては捨てています。このような事がいつまでも続くはずがありません。
いま、晩夏の日差し傾きかけたこの福泉寺の門前で、この一切亡虫魚の墓の前でひざまづき手を合わせ、昨日も今日も明日も食事をいただける有りがたさと、その罪深さを深く反省したのです。