大和市下鶴間、境川に沿った小高い丘の上にあるのが曹洞宗の境国山 定方寺です。
御本尊様は釈迦如来像ですが、武相卯歳観音の札所としても崇敬を集めており、正観世音菩薩も祀られているお寺です。
この辺りは、もともと水害の多い所だったのでしょう。
川沿いにありながらわざわざ高台を選んで建てられたという事が、その歴史を物語っているかのようです。
それもそのはず、かつてこのお寺は今の位置から見て対岸の川沿いにありました。
現在、その場所は定方寺公園という児童公園として整備されています。
この定方寺に関しては、江戸時代後期に編纂された一大歴史資料である「新編相模国風土紀稿」において、
と簡単に紹介されています。
さて、この定方寺の境内には、瘡守稲荷の社が建てられています。
史料を探してみると、ここの御神体は狐にまたがった女神像であるという事ですから、おそらくは荼枳尼天のことを言うのでしょう。
荼枳尼天はよく狐にまたがった姿で描かれますが、それゆえに稲荷信仰と結びついた事が多かったと言われています。
その一方で、当初は荼枳尼天というのは激しい性格をしており、一度信仰したのならば決してその信心を変えてはならぬ、もしその法を破ろうものならどんなに財力のある者でもたちまち没落し、また健康な者は寝たきりになるなどとも信じられていました。
荼枳尼天は狐を使いとするところから、日本では稲荷信仰とも結びついていきました。
その一方、稲荷信仰が農耕の神様であるのに対し、城を守る戦の神としても城内に祀られ、いかに日本人に親しみがある神様であったかが分かります。
戦国時代が終わって天下太平の世になると、次第に病気回復と開運出世の福の神として信仰されるようになります。
特に荼枳尼天は平等な神様で、博徒や遊女、被差別階級といった人たちでもあまねく救い、決して差別なく扱ってくれるということで広い信仰を集めました。
今ではほぼ根絶されてしまった疱瘡、いわゆる天然痘は江戸時代の日本ではたいへんに恐れられた存在でした。
簡単に感染して皮膚を爛れさせ、致死率も高く、生き残っても大きな痕を残すので、それがもとで嫁入りが出来なくなった娘も多かったといいます。
そのために全国にたくさんの瘡守稲荷神社が祀られ、疱瘡除けの霊験を求めて多くの人が詣でたということでした。
この定方寺の瘡守稲荷神社が、いつ、どのような経緯でここにあるのかは詳らかではありませんが、かつて疱瘡が現代のコロナウイルスのように恐れられた時代、ただ神仏にすがることしかできなかった昔の人たちが多くこの地に集まり、一心に手を合わせて祈りを捧げたことでしょうか。
いまは、医学の進歩により天然痘で苦しむ人はいなくなりました。
、この瘡守稲荷神社の小さな祠の前で静かに手を合わせていると、まるで小さな我が子の手を引いた若い母親が、この子が疱瘡にかからないようにという願いを込めて手を合わせ、心尽くしのお供えを一緒に備える姿が目に浮かんでくるようで、ここにも時代の流れというものをそくそくと感じるのです。