綾瀬市は吉岡の里を原付で駆け抜けました。
城山公園のあるあたりから目久尻川を渡って葛原へと至る道を、どんどんと登っていきます。
このあたりは交通量もあまり多くはなく、見通しもよくて原付ではとても走りやすい道です。
とちゅう、綾瀬市のリサイクルプラザの裏手にあたるところ、簡素な説明看板が立てられているのを発見しました。
その脇にはいくつかの石塔が残されており、その脇にはまるで農道か獣道のような小道が続いており、これを里人たちは「春日道」と呼んで今なお大切にされているかのようです。
この春日道の起源は、遠く江戸時代にさかのぼります。
春日道の春日とは、徳川三代将軍家光の乳母である春日局(かすがのつぼね)にちなんだ名前です。
春日局は本名を斎藤福(さいとう ふく)といって、 美濃国(現在の岐阜県)の名族であった斎藤氏の一族、あの織田信長を討ち取ったと言われている明智光秀の重臣であった斎藤利三とされており、母は稲葉一鉄の娘であるお安か、もしくは稲葉一鉄の姉とされています。
どれも有名な戦国武将ですから、江戸期に入ってなお戦国時代の名残を色濃くとどめているのです。
春日局は江戸城の大奥の礎を築いた人物であり、松平信綱、柳生宗矩と並んで若き将軍家光を支え、かつ朝廷との交渉では前面に立つといった「近世の女性政治家」ともいうべき人物です。
その波乱万丈の生涯は当時の女性としては珍しく、平成元年には大河ドラマ「春日局」の主人公にまでなっている人物です。
江戸時代後期に編纂された一大歴史資料である「新編相模国風土記稿」の吉岡村の項には春日局がたびたび登場します。
現在の済運寺がある付近にも屋敷をかまえ、その縁をもって済運寺も春日局にゆかりがふかく、吉岡神明社の本殿の棟礼には元和2年(1616年)に春日局によって勧請した事が書かれているそうです。
現在では、春日局にちなんだ春日道は、まるで農道のようになっています。
この先には墓地が広がるばかりで、この細い道が江戸時代の街道であったとはにわかに信じがたいくらいですが、ここは間違いなく往還の要だったのでしょう。
この春日道は、江戸時代から大正時代にかけて、大山参りの際に通る「大山みち」としても使われていたという事です。
今となってはその面影はありませんが、説明看板の脇には「庚申塔」に並んで六角柱の「天照皇大神」がのこされています。
どちらもかなり古い物のようです。
さらに左端には、角柱の側面に「向 左 深谷」などが書かれた簡素な道標が残されています。
やはり、ここは往還の辻だったのかもしれません。
いま、この春日道を通る人もほとんどなく、たまにお墓参りと農作業に向かう人たちが通るばかりの小道になってしまっています。
ただ、この道がかつて日本と江戸幕府の先頭に立って国政を動かした 女傑・春日局の痕跡をわずかにとどめる道であり、かつての大山詣での人たちが春日局に思いをはせながらこの道を歩いたであろうことを思う時、ここにも歴史の持つ奥深さがしみじみと思い出されてくるのです。