神奈川県を東西に結ぶ大動脈のうちの1本が国道246号線であるが、そのランドマークの一つとなっているのが伊勢原市と秦野市の境にある善波トンネルと善波峠である。
ここはかつて、矢倉沢往還と言って峠越えの街道であり、時代は令和となった現代にあってもかつての街道の面影を色濃く残しているのである。
かつて、近世と呼ばれた江戸時代ごろから明治大正にかけて、日本橋を起点とする東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道の「五街道」を中心として、本街道の脇にある「脇往還」が陸上交通の要として整備されていった。
その中でも、この「矢倉沢往還」は東海道の脇往還として発達し、江戸の赤坂御門から厚木と伊勢原を通じ、ここ善波峠を越えると秦野市曾屋の十日市場から松田惣領・関本などを抜けて、駿河の沼津宿まで延びていたとされている。
また、この善波の辺りは大山不動への参詣路としても重要な位置を占めており、現在でも大山街道という名にその名残を残しているのである。
現在、善波峠の下を潜るようにして通る国道246号線は、概ねこの矢倉沢往還に沿って通じているのだという。
また、当時は秦野の曾屋あたりに開かれていた通称「十日市場」は、この近辺の経済活動において中心的な役割を果たしていたが、その市場における物資運搬に欠かせぬ街道がこの矢倉沢往還であったとされているのである。
現在、このかつての矢倉沢往還の旧道の脇には、これもまた廃仏毀釈の為政者であろうか、首が落ちて自然石にすげ替えられたままの地蔵菩薩たちが寂しげに並び、かつての賑わいを懐かしんでいるかのようである。
この地蔵菩薩たちの裏側の、粗末な階段を上がっていくと、この旧道の交差路を見下ろす崖の上に完全に崩れて原型を留めない常夜灯が残されており、これは「善波御夜灯」と呼ばれている。
これは今から200年近く前の文政10年(1827年)、江戸時代末期の頃に旅人の峠越えの安全のためにと作られたものであるという。
夜間を通して道を照らす灯台となっていたことは想像に難くないが、この御夜塔を灯す油は、近隣の農家が栽培した菜種から抽出した拠出油であった。
かつて、この下には峠の茶屋があったと案内板にはあるが、その主人の八五郎氏によって明治末期まで灯りが灯され続けたのだという。
しかし、善波トンネルの開通と共に交通の要項が国道246線へと取って代わられるにつれ、この御夜塔は荒れ果てて放置され、崩れるにまかされていたものが、平成6(1994年)に地元の「太郎の郷づくり協議会」の手により復元され、ここに展示される事になったのだという。
この塔は、上部は完全に崩れてしまっているものの、足台は豪奢な形をしており、この御夜灯を作り上げた石工の技術力の高さに驚かされるばかりである。
その足元には、かつて火屋として火を灯していたのか、四角い窓のようなものを持つ石が砕けた傷跡をさらけ出して、いま落ち葉に埋もれていこうとしているのが見て取れるのである。
いま、この街道はハイキングコースとしてかろうじて残されているものの、平日ともなれば人通りはほとんどなく、ただ苔むした石仏が寂光の夕陽の中に佇んで、その大きく割れたお姿がなおいっそう哀れであった。
いま、この鬱蒼とした密林の中に、首のない表情もわからぬ地蔵尊にひとり手を合わせる時、かつてこの道を往来していた多くの旅姿の人たちと、彼らの灯台となってともり続けた御夜塔の艶姿が思い起こされるようで、ここにも時の流れのはかなさをしみじみと感じるのである。